dupchecked22222../cacpdo0/2chb/454/01/history166790145421765164265 邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚 ◎正当な理由による書き込みの削除について:      生島英之とみられる方へ:

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1◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 18:57:34.54
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1667570281/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 18:58:32.12
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 18:59:04.34
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 18:59:38.63
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:00:09.77
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:00:41.48
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:01:13.39
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

8◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:01:46.79
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:02:18.40
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:02:58.43
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:03:30.34
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

12◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:04:12.87
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:04:43.95
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

14◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:05:14.87
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:05:46.11
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:06:18.50
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:06:50.56
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

18◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:07:22.05
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

19◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:07:53.72
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

20◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:08:20.25
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。

21◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:08:52.08
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

22◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:10:01.77
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

23◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:10:32.61
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。

24◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:11:13.00
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

25◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:11:45.27
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

26◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:12:16.56
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

27◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:12:47.95
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

28◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:13:19.18
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。

29◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:13:49.14
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

30◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:14:20.65
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

31◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:14:52.78
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

32◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:15:27.17
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

33◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:16:34.25
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

34◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:17:06.15
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

35◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:17:36.35
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

36◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:18:08.14
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

37◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:18:40.62
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

38◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:19:21.43
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

39◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:19:59.51
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。

40◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:20:31.71
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

41◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:21:06.58
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

42◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:21:37.71
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

43◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:22:08.79
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

44◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:22:39.57
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

45◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:23:12.60
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

46◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:23:46.10
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

47◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:24:51.16
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

48◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:25:37.64
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

49◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:26:16.46
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

50◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:26:47.65
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)

51◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:27:21.38
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

52◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:27:53.67
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

53◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:28:31.45
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

54◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:29:03.32
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

55◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:29:33.88
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

56◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:30:11.70
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

57◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:30:46.53
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) 邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

58◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:31:20.76
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

59◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:31:52.83
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

60◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:32:24.83
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。

61◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:32:59.44
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

62◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:33:31.43
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

63◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:34:02.32
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

64◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:34:35.37
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

65◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:35:10.74
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

66◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:35:43.15
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf=i橋口編年)と麹lえられた。石末が公衆向け著緒q等で卑弥呼冢血補の員数に入b黷スのも、このb謔、な年代観に滑づくものであbう。
 緒ッ内併行期に於bッる在来系の様試ョ変化について血、究が進むにつb黶A柳田が凸帯bゥら庄内併行期bフ特徴が既に喪bネわれているこbニを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

67◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:36:16.43
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

68◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:36:47.29
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

69◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:37:20.29
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

70◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:37:52.45
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

71◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:38:24.43
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
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第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

72◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:38:56.42
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

73◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:39:27.69
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

74◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:40:00.50
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
同空撮 邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
建物B空撮 邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
Dより西を望む 邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

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75◆n7jxAxKCBhb6 2022/11/08(火) 19:40:32.63
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

76日本@名無史さん2022/11/08(火) 19:48:25.46
阿波の渡来人が箸墓古墳を作ったのか?

77日本@名無史さん2022/11/08(火) 20:07:07.58
>>76
4世紀の初め頃、遺跡がほとんど無い寒村にもかかわらず、
奈良県を中心として、なんの助走・前触れもなしに突然、
大型の「前方後円墳」がつくられるようになるという、実に不可解な現象が起こりました。
なんでかな~  わははははは   @阿波

78日本@名無史さん2022/11/08(火) 20:15:40.99
>>77
統一国家大和朝廷成立

79日本@名無史さん2022/11/08(火) 20:20:45.60
昔は大和朝廷と言われていたが現在は大和王権と言われている。王朝が複数あるとの認識らしい。

80日本@名無史さん2022/11/08(火) 20:21:58.91
>>77
渡来人の忌部氏と纏向の関係は?

81日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:03:41.94
日本書紀によると、纒向付近はかつて大市と呼ばれる市で賑わった土地だそうだ
纒向遺跡では東海産の飯炊き土器、そして海の幸、吉備から桃、地元桜井の蛙やイノシシなどを食い散らかした跡が発見されている
弥生時代にも時々物々交換の場として開放されていた土地なのでしょう

魏志倭人伝によると、女王国の国々には市があり、大倭を使ってそれらを監視していたと記されています
当時の倭人の発音に対し中国漢字をあてがって記述されているので「大倭」は「ダーワ」と読みます

82日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:03:57.69
神武の橿原宮を造った後に未開の阿波を開拓したのが天富命

83日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:07:06.13
>>81
>日本書紀によると、纒向付近はかつて大市と呼ばれる市で賑わった土地だそうだ

と言うことは、その「纒向」は「阿波」にあったってことだ。  わははははは   @阿波

84日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:08:34.47
>>82
>神武の橿原宮を造った

と言うことは、その「橿原宮」は「阿波」にあったってことだ。  わははははは   @阿波

85日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:09:49.88
>>83
これの阿波版を書けよ

■纏向周辺
農地や住居はほとんど無く閑散とした土地

■纏向出土品
・木製の土木用具多数
・東海産の飯炊き土器と鯖の骨、イノシシの骨、蛙の骨、桃の種
・祭りがあるたびに設営されていた大型ステージと仮装用の仮面

■文献記録
日本書紀によると、纒向付近は大市と呼ばれる市でにぎわった町とのこと

86日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:12:05.93
>>82
>神武の橿原宮を造った

つまり、その「橿原宮」は「神武天皇を祀る樫原神社」ってことだ。

菊の十六紋を神紋とする「神武天皇を祀る樫原神社」
阿波忌部族の勢力圏となる吉野川南岸部をすべて見下ろす地に建つのが
「橿原神宮」の元社と囁かれる阿波市土成町樫原の「樫原神社」であり、
祭神を神武天皇の元名・「神倭伊波礼毘古命」とし、菊の十六紋を神紋とする。   @阿波
http://www.awainbe.jp/info/20190426/
https://sueyasumas.exblog.jp/9839297/

87日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:20:00.48
神武東征神話では四国は完全除外している

88日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:23:24.32
>>87
元々、筑紫天孫族の傘下。太玉命や日鷲命は天岩戸神話から活躍。

89日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:37:45.40
http://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00001wl9vx-att/q3tncs00001wla1l.pdf
弥生時代後期は伊勢遺跡の時期
古墳時代初頭からは東海系でこれは纏向遺跡と一致する
殆ど地元の土器ではあるんだけど

90日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:42:19.94
投馬国はミミ、ミミナリの国なんだよな
耳に纏わる神社はあちこちにあるがよく似た風習が残っている

錐キリをお供えする
竹の筒に紐を通した絵馬
竹で作った錐キリ

ミミ、キリ、竹、馬この辺がキーワードだな
神武東征の元ネタは、古墳時代前期の大帯姫&竹内宿禰の東征かもねえ

竹内宿禰は日向とも関係が深い
日向の牛諸井の娘髪長姫とお供の鹿皮を着た鹿児カコ

91日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:44:07.69
阿波よ忌部氏が渡来人と言う事になぜ答えない、子孫が渡来人だと言ってるぞ

http://tomoka.jugem.cc/?eid=2803

92日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:44:38.05
古墳時代前期、アマタラシヒコの時代の田目皇子、天武天皇
この辺は九州勢が一世風靡した時代かな

93日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:44:41.07
トウバって発音する地名は当時の日本にないの?

94日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:47:23.46
>>90
絵馬が遺跡から出た事があるのか?
なんも関係ねえよ

95日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:48:44.73
>>93
ツマらしいよ

96日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:49:47.98
ツマじゃなくツーマだったかな

97日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:55:49.14
ミミヅクだけでなく、虎杖も気になる
イトにイタ、これも九州っぽい音
虎杖は傷薬、東北の妖怪カマイタチと関係あるかもしれん

98日本@名無史さん2022/11/08(火) 21:58:01.65
>>87
神武東征は、饒速日命や那賀須泥毘古が治める、敵領の吉野川北岸を
西(阿波市)から東(鳴門市)へ40㎞をも苦労しながら平定していった征伐譚。   @阿波  

99日本@名無史さん2022/11/08(火) 22:08:34.69
珍しいな阿波が無視するなんて

100日本@名無史さん2022/11/08(火) 22:12:25.15
神武東征の発議
彦火瓊々杵尊が天の関を開き雲を押し分けこの国(日向国)に来たのは大昔のことであり
世界のはじめで、暗闇の状態であった
それゆえ諸事に暗く分からないことも多かったので
物事の道理を養い、西のはずれの地を治めることとした
天祖が天から降って今日まで179万2470余年が過ぎ
塩土老翁から、東に美しい土地があり、青く美しい山が囲んでいる
そこに天磐船から降りた者がいると聞いた
私が思うにかの地は天地四方の中心だろう
そこに飛んで降りた者とは饒速日という者ではないだろうか
私はそこへ行き都としたい

筑紫洲=西のはずれの地
大和=美しい土地

101日本@名無史さん2022/11/08(火) 22:17:50.89
>>88
>太玉命や日鷲命は天岩戸神話から活躍。

「阿波の神様 大宜都比売」は、天地開闢の頃からいるんだがww  わははははは   @阿波

102日本@名無史さん2022/11/08(火) 22:19:48.84
>>100
神武東征は、饒速日命や那賀須泥毘古が治める、敵領の吉野川北岸を
西(阿波市)から東(鳴門市)へ40㎞をも苦労しながら平定していった征伐譚。   @阿波  

103琪瑛教祭酒2022/11/08(火) 22:21:38.98
神武がいたら明治に神社なぞ建てないだろ。
架空だよ

104日本@名無史さん2022/11/08(火) 22:27:35.24
>>91
渡来人の定義が定ってないがハプロDの縄文人から見れば弥生人は皆、渡来人だろう。個人的にはヤマト王権成立後の渡来は渡来人なのかなと。
阿波忌部当主の三木氏も太玉命を祖とする忌部と天日鷲命を祖とする阿波忌部が太玉命から分かれた支族なのか忌部の配下に付いた氏族なのかどういう関係だったかよくわからんらしい。
おそらく阿波忌部は墓制や「鳥トーテム」からして高句麗人なのではないかと予想。

高句麗古墳の壁画オフェ墳 4号墓の絵「八咫烏らしきものが描かれている」
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

105日本@名無史さん2022/11/08(火) 22:31:15.01
>>104
貴重な資料ありがとうございます

106日本@名無史さん2022/11/08(火) 22:31:49.85
高句麗王朝そのものは鳥は鳥でも鳳凰が意匠されてて三本足カラスの意匠は豪族のものなんだっけ

107日本@名無史さん2022/11/08(火) 22:32:56.71
>>103
天皇は神を祀る側の最高権力者であって、本来は祀られるものではない。
あったとしてもとてもこじんまりとしたものだ。
大神氏の戦略で八幡神と習合した応神天皇や不幸のあった天皇は除く。
アホバカもいい加減にせよ。

108日本@名無史さん2022/11/08(火) 22:34:21.59
神武天皇陵は明治時代にコンクリートで築造された。騙されてはいけない。

109日本@名無史さん2022/11/08(火) 22:36:30.38
神武天皇陵ってなんで他の形を無視して正方形なん?

110日本@名無史さん2022/11/08(火) 22:43:53.49
最近テレビでよく見る韓国警察のマークは鳥だね

111琪瑛教祭酒2022/11/08(火) 22:47:50.38
>>107.はははは、太一を中華皇帝や我が姫も祀るが、天皇もまた太一を祀るが中華皇帝との違いを理解してない無知だな。

112日本@名無史さん2022/11/08(火) 22:48:45.77
神武の東征に同行した忌部氏は渡来人だったのかな
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

113日本@名無史さん2022/11/08(火) 22:51:11.70
神武帝は色々なところで水軍の援軍を得てるからその中に渡来系が混じるのは当時の水運事情を思えば有りかと

114日本@名無史さん2022/11/08(火) 22:54:51.92
>>113
そうであればその渡来人は畿内にも行ったはず

115日本@名無史さん2022/11/08(火) 22:58:59.75
そう…なのかな
水軍ってやたら縄張り意識が強いから自分の縄張りを出たら神武帝から離れちゃうのではないか
神武帝が行く先々で援軍を請うのも境界線で水先案内人が自分から離れてしまったためではないか
と思ったけど間違ってるかな

116日本@名無史さん2022/11/08(火) 23:06:55.19
忌部氏は朝廷の祭事を行なったので神武と一緒に畿内に入ったのだろう

117日本@名無史さん2022/11/08(火) 23:10:58.99
あれーでも忌部氏の地位確立って5世紀とされてるらしいから神武東征の時期が大幅に下ってしまうような

118日本@名無史さん2022/11/08(火) 23:15:16.85
>>117
こまけえ事はいいんだよ

119日本@名無史さん2022/11/08(火) 23:17:55.97
>>117
神武の東征は4世紀ごろの事ではなかったかと思ってます

120日本@名無史さん2022/11/08(火) 23:19:45.01
ヤマト政権以前のありようを不十分だが取り戻し平安が訪れたということだね
竹を切り酒を注いで奈良時代は終わる

121日本@名無史さん2022/11/08(火) 23:30:37.63
>>120
政教分離するために遷都したらしい

122日本@名無史さん2022/11/08(火) 23:48:51.09
>>116
阿波忌部の支族と思われる賀茂建角身(=八咫烏・三島溝咋)は神武天皇のはるか前に畿内に入り出雲族と姻戚関係にある。

123日本@名無史さん2022/11/08(火) 23:57:55.49
>>104

記紀には八咫烏が三本足であるとは記述されていない
八咫烏を三本足とする最古の文献は、平安時代中期(930年頃)の「倭名類聚抄」

124琪瑛教祭酒2022/11/09(水) 07:37:30.50
紀元前711年2月13日生まれの筑紫の人ではないのか?
卑弥呼とは関係ない話だろ。

125日本@名無史さん2022/11/09(水) 08:17:02.21
畿内説は統一狂学会の壺
買ったら人生終わりだぞw

126日本@名無史さん2022/11/09(水) 08:37:15.59
>>123
完全に刷り込みされてた。後付け設定っぽいな。しかし、阿波忌部高句麗起源説が間違いと決まったわけではないと、まぁどうでもいいのだけどw

127日本@名無史さん2022/11/09(水) 09:59:38.01
>>125
あなたの九州説がそう見えます
同じセリフの繰り返しなので

128日本@名無史さん2022/11/09(水) 10:03:28.92
言い方変えたろか?

129日本@名無史さん2022/11/09(水) 10:09:44.22
「畿内説」は歴博の韓国式言動で生み出された「壺」なのです

130日本@名無史さん2022/11/09(水) 10:11:23.96
>>129
あなたがデマで歴博を中傷してる人?

131日本@名無史さん2022/11/09(水) 10:19:32.75
>>130
歴博の韓国式言動がデマに相当するだろ

132日本@名無史さん2022/11/09(水) 10:22:17.44
>>130
さすがにデマってのはないよ。旧石器、弥生時代前倒し、そして箸墓。
今後の為にも周知すべき。教科書の訂正とか最悪!

133日本@名無史さん2022/11/09(水) 10:24:09.23
ホントに九州説は最悪

134日本@名無史さん2022/11/09(水) 10:36:34.35
>>133
何説とかの問題ではない。邪馬台国に興味がなくヤマト王権の成り立ちに注目している人間からも迷惑以外の何でもない。

135日本@名無史さん2022/11/09(水) 10:37:44.29
>>134
おまえも興味ないんだろ

136日本@名無史さん2022/11/09(水) 10:42:43.21
一つの嘘が起こすバタフライ効果を考えろ。

137日本@名無史さん2022/11/09(水) 10:44:07.25
桜井市には出雲、吉備、豊前と言う地名があるがこれは何を意味するのだろうか?

138日本@名無史さん2022/11/09(水) 10:46:22.69
>>137
それがいつからあるのかによるな。
因みに諏訪という地名は全国に数百ある。

139日本@名無史さん2022/11/09(水) 10:56:48.46
>>137藤原京造営の貢進の関係

140日本@名無史さん2022/11/09(水) 11:06:08.77
箸墓古墳は「北溝 南溝」の水路工事の残土を再利用したものだろう

141日本@名無史さん2022/11/09(水) 11:15:08.95
>>137
別に意味ないでしょ
イズモでありキビでありブゼンだから

142日本@名無史さん2022/11/09(水) 11:25:42.89
歴博は信用できないから自分が決めてやると言ってるようにしか見えないのよね
信じないなら全部信じないと言えよ
自分の都合で基準を変えるなんて話しにならん

143日本@名無史さん2022/11/09(水) 11:28:26.94
>>139
藤原氏のルーツは豊前だから何かあるのかも

144日本@名無史さん2022/11/09(水) 11:31:31.78
>>142
歴博だろうが誰だろうがインフルエンサーの妄言は叩かれて当然だろ
それを盲目的に受け入れてる畿内説バカが統一信者に見えるのも当たり前

145日本@名無史さん2022/11/09(水) 11:32:30.95
>>143中臣鎌足の故郷は常陸

146日本@名無史さん2022/11/09(水) 11:43:07.88

147日本@名無史さん2022/11/09(水) 11:47:11.10
>>144
おまえがどうしたいか言わないから迷惑なだけだから

148日本@名無史さん2022/11/09(水) 11:47:58.86
>>147
妄言を吐かなきゃいいだけだろ

149日本@名無史さん2022/11/09(水) 11:48:50.75
>>148
誰に言ってるんだ?

150日本@名無史さん2022/11/09(水) 11:50:14.75
>>137
奈良は九州の地名も多いが特に気にする必要はない

151日本@名無史さん2022/11/09(水) 11:50:35.59
>>149
アホの考古学者

152日本@名無史さん2022/11/09(水) 11:52:20.17
>>150
風景は豊前とよく似ているぞ

153日本@名無史さん2022/11/09(水) 11:59:54.95
>>152
地名はだいたい風景や地形を元にしてるから

154日本@名無史さん2022/11/09(水) 12:01:10.27
>>150東国の地名はない

155日本@名無史さん2022/11/09(水) 12:11:21.21
豊前はあって豊後が無い件

156日本@名無史さん2022/11/09(水) 12:17:24.33
出雲といえば野見宿禰だから
おそらく出雲部屋、吉備部屋、豊前部屋というお相撲さんの部屋があったんだろう

157日本@名無史さん2022/11/09(水) 12:19:22.29
>>132
>さすがにデマってのはないよ。旧石器、弥生時代前倒し、そして箸墓。
>今後の為にも周知すべき。教科書の訂正とか最悪!

そうやってデマを流す九州説が最悪でしぃ

158日本@名無史さん2022/11/09(水) 12:25:14.70
>>156そう言う勘違いをして梅原猛が書いちゃったのが神々の流懺

159日本@名無史さん2022/11/09(水) 12:41:49.58
相撲のルーツ神相撲 八幡古表神社


160日本@名無史さん2022/11/09(水) 12:44:22.60
豊前(都に近いほうが前)などの令制国名は7世紀末だから神話とかの時代ではなくて
奈良県に55、京都に10、大阪に6ということらしいので
まずお相撲さんの部屋ができて、人気のお相撲さんの故郷の饅頭屋が店を出していったんだろう

161日本@名無史さん2022/11/09(水) 12:48:47.53
古代の相撲は殴る蹴る目潰しあり

162日本@名無史さん2022/11/09(水) 13:30:06.76
考古学者が神武天皇は居ましたとは言えないだろう
なんの根拠もない

163日本@名無史さん2022/11/09(水) 13:30:30.93
>>161
プロレスやなw

164日本@名無史さん2022/11/09(水) 13:37:52.46
>>162
言う必要が無い
遺跡や遺物に関する科学的調査結果のみ報告すればよろし
広範囲の分野でそれぞれの視点から同様に調査を行い、結果を報告すればOK
いちいち空想物語を創って添える必要は無いんだよ

165日本@名無史さん2022/11/09(水) 13:42:20.58
やっぱここの人達知識がある
根拠のない神話の話しとかウンザリ
テンプレだって間違ってると思えば訂正していけば良いのよ
何が書いてあるか知らんけど

166日本@名無史さん2022/11/09(水) 13:44:54.60
>>164
そのくらい戯言だと思って許してやれよ
仕事としてのルーティンワークだけじゃつまらんだろ

167日本@名無史さん2022/11/09(水) 13:44:58.93
>>162神武天皇と言う漢風諡号は8世紀初頭の淡海御船の撰だから考古学者が言える訳がない

168日本@名無史さん2022/11/09(水) 13:48:32.67
日本の科学的調査結果を拒絶して空想物語を作っているのが
一人一九州説

169日本@名無史さん2022/11/09(水) 13:56:53.18
>>168
科学的調査結果のみ組み合わせたものが九州説なのだが?
そして何でもかんでも盲目的に受け入れてる畿内説統一信者が的外れな反論しか出来ないからバカにされてるだけだろ
>>1とかw

170日本@名無史さん2022/11/09(水) 14:00:37.79
3世紀前半の博多は畿内の影響下に供献土器を模倣制作し、
畿内と同じ前方後円墳を築造している

171日本@名無史さん2022/11/09(水) 14:16:32.49
>>170
畿内文化が入ってきたんだろうが影響下かどうかわからない
俺には関係なさそうに思える

172日本@名無史さん2022/11/09(水) 14:23:13.98
巨大前方後円墳を見てうちにもあれが欲しいってのは影響下と言える程じゃない

173日本@名無史さん2022/11/09(水) 14:26:50.53
箸墓古墳ができたのは土木工事の2次的産物

174日本@名無史さん2022/11/09(水) 14:33:54.39
東日本と文化の交わりがあるのに何故無視されてるのか?
不可解だなあ

175日本@名無史さん2022/11/09(水) 14:35:43.87
妄想を語るのではなく、せめて該当する文献記録を添えておくべきだな

■纏向周辺
・農地や住居はほとんど無く閑散とした土地
・周辺には大型古墳が立ち並ぶ(向きは滅茶苦茶)

■纏向出土品
・木製の土木用具多数
・東海産の飯炊き土器と鯖の骨、イノシシの骨、蛙の骨、桃の種などの残飯
・市が開催されるたびに設置された宮殿という名のステージと踊り子さんの仮装用仮面(木製)

■文献記録
日本書紀によると、纒向付近は大市と呼ばれる市でにぎわった町とのこと
魏志倭人伝によると、女王国の国々には市が有り、大倭を使ってそれを監視していたとのこと

176日本@名無史さん2022/11/09(水) 14:42:49.37
勾玉は東日本の文化だし棟持ち柱建物も東か西かどっちが先か
わかんないくらい早くからある

177日本@名無史さん2022/11/09(水) 14:50:53.62
>>170
その影響下というのがかなりの妄想だなw

178日本@名無史さん2022/11/09(水) 15:44:59.60
>>169
>科学的調査結果のみ組み合わせたものが九州説なのだが?

本気で言ってる?
w
どんな科学的調査?
それ、科学者がやってる?

179日本@名無史さん2022/11/09(水) 15:46:33.26
>>177
なぜ妄想だと?
九州説はいつも理由が言えない
証拠も出せない
それ、どこが科学的ですか?

180日本@名無史さん2022/11/09(水) 15:49:38.59
>>175
などと言って平然とウソを書くのが九州説
どれがウソだか、指摘されなくても分かるでしょ?

181日本@名無史さん2022/11/09(水) 16:07:34.83
そして、3世紀前半の博多の首長層は九州内の影響はまったく受けていない

182日本@名無史さん2022/11/09(水) 16:09:55.23
勾玉原料の石材は越の国から全国に出回ってたみたいね…昔の人の行動範囲が広すぎて軽く引く

183伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 2022/11/09(水) 16:31:27.17
>>182
翡翠は糸魚川産、黒曜石は信州か神津島産。

184日本@名無史さん2022/11/09(水) 16:36:56.02
なんか弥生・古墳の頃より縄文時代の方が航海術高くない?って思うことが多々ある

185日本@名無史さん2022/11/09(水) 16:40:08.07
出雲市京田遺跡の辰砂鉱石は北海道産

186日本@名無史さん2022/11/09(水) 16:43:00.47
>>183
姫島の黒曜石もお忘れなく

187日本@名無史さん2022/11/09(水) 16:43:49.92
>>184
実際はそんな事はなくて弥生時代の航海技術が思ってるより高いんでしょう

188日本@名無史さん2022/11/09(水) 16:47:57.38
【画像】魏志倭人伝を解読した。卑弥呼=百襲姫命だ
http://2chb.net/r/history/1666446959/

189日本@名無史さん2022/11/09(水) 16:49:22.77
縄文時代の交易範囲は広いし遺跡からいろいろ出てくるけど
勾玉は東日本の文化だよ

190日本@名無史さん2022/11/09(水) 16:54:50.57
巨大なヒスイの勾玉、銅鐸、龍の絵画土器
池上曽根遺跡や唐古・鍵遺跡はかなり重要な遺跡かもな
巨大神殿、楠の巨大井戸、鉄工房、石器の祠、石器の製造、石包丁の流通、鳥形、蛸壺、
生活臭の強い面白い遺跡だわ

191日本@名無史さん2022/11/09(水) 16:57:29.84
大阪は池上曽根遺跡の他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡など、きりがないほどヒスイ勾玉が見つかっているね

192日本@名無史さん2022/11/09(水) 17:09:31.67
が、ある日突然翡翠は価値を失うんだよね。あのあたりで何か室町の大寧寺の変なみの貨幣価値的政変があったんだろうか

193伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 2022/11/09(水) 17:12:34.62
>>189
縄文時代通じて東日本の方が人口多いからね、
西日本は、鬼界カルデラの破局噴火の痛手からまだ立ち直って無いし、今より温暖で、可住面積も少なかった。

その後東日本も火山噴火や地震、津波によって人口減少しちゃうんだけどね。

194日本@名無史さん2022/11/09(水) 17:15:59.96
卑弥呼の墓はここかも
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

大分の松尾神社

195日本@名無史さん2022/11/09(水) 17:16:49.00
>>193
それはその通りなんだけど西日本、特に畿内の人が
勾玉が欲しいと思って実際手に入れたんでしょ
別に奪ったとか言ってるんじゃなくて

196日本@名無史さん2022/11/09(水) 17:21:40.19
交易するのは欲しいものがあるからでしょ

197日本@名無史さん2022/11/09(水) 17:23:42.63
池上曽根遺跡では稲作に使う石包丁が作りかけも含め数千個も見つかっている
工業都市商業都市の先駆けかもな
現代の大阪のありように通じるものがある
旧石器時代から刃物の製造が行われ弥生時代の石包丁に至り、材料は鉄に代わっても江戸時代の堺極の包丁に受け継がれ現代まで脈々と続く伝統

198日本@名無史さん2022/11/09(水) 18:03:12.54
ホケノ山古墳が4世紀だと公表されているのに、いや3世紀前半だと言い張る畿内説は詐欺
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

「樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。」

199日本@名無史さん2022/11/09(水) 18:07:05.56
>>189
>勾玉は東日本の文化だよ

なんでや? 勾玉王国「阿波」が聞いてやろう。   @阿波

200日本@名無史さん2022/11/09(水) 18:16:16.17
>>199
おまえの所は石ころしかないだろうがよ

201日本@名無史さん2022/11/09(水) 18:19:15.62
確かに、縄文時代前期~中期は、東日本が優勢だった。

縄文時代後期からは、西日本が優勢となる。  「阿波」の時代の始まり。   @阿波

202日本@名無史さん2022/11/09(水) 18:21:19.76
>>198
絶対か?必ずなのか?
正直その図の見方がわかんねえ

203日本@名無史さん2022/11/09(水) 18:33:10.78
卑弥呼陵は黒塚

204日本@名無史さん2022/11/09(水) 18:33:13.18
勾玉王国「阿波」

深瀬遺跡(縄文時代前期~阿南市深瀬町)の翡翠製丸玉、

田井遺跡(縄文時代前期~中期美波町由岐)の石鏃、石斧、けつ状耳飾り

西原遺跡(弥生時代後期初頭(1900年位前)~東みよし町足代)の翡翠製大珠   @阿波

205伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 2022/11/09(水) 18:49:12.59
うーん勾玉と言うのは曲がった玉なのよね。
玉ならなんでも良いと言うわけでは無い。

206日本@名無史さん2022/11/09(水) 19:06:37.54
「矢野型勾玉の各地の分布:讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域」
四国地域において長さ5cm前後の大型の蛇紋岩製勾玉は、
徳島県名東遺跡、南庄遺跡、七条経塚遺跡、石井城ノ内遺跡、
香川県旧練兵場遺跡、石田布施遺跡、原間遺跡、
愛媛県今若遺跡、
高知県下ノ坪遺跡、(曹長石)などに認められる。
これらは多様な石質・形状から弥生時代後期前半期における自己完結的な製作消費が考えられるが、

これと相前後して、斉一性の強い小型勾玉の一群が出現する。
阿波地域を中心に点在しており、石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。
蛇紋岩の製作遺跡 東みよし町稲持遺跡。徳島市矢野遺跡、上板町七条経塚遺跡
原石産出地 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩
矢野型の各地の分布 讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域
2014/8/23 「阿波の勾玉最前線―蛇紋岩製弥生勾玉の拡散」 講座資料抜粋
元徳島県埋蔵文化財センター専務理事 菅原康夫氏    @阿波

207日本@名無史さん2022/11/09(水) 19:13:24.08
>>198
>ホケノ山古墳が4世紀だと公表されているのに

されてません
素人がグラフの読み方を間違っているだけ

208伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 2022/11/09(水) 19:13:37.25
勾玉王国と言いながら、なんで勾玉以外の事例を挙げたん?
最初から勾玉の例をあげなさい。

209日本@名無史さん2022/11/09(水) 19:19:54.58
確かに、縄文時代前期~中期は、東日本が優勢だった。

縄文時代後期からは、西日本が優勢となる。  「阿波」の時代の始まり。   @阿波

210日本@名無史さん2022/11/09(水) 19:20:47.82
遅くとも、阿波から西日本各地に文化発信が始まったのは、
卑弥呼の時代より遥か昔の縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭である。
「石棒」
石棒は縄文時代を代表する石器である。実用品ではなく儀礼に用いられたと考えられている。
縄文晩期末から弥生時代前期初頭に、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県
にいたるまでの今までになく広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。
この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡が、
その一大製作遺跡であると考えられている。   @阿波

211日本@名無史さん2022/11/09(水) 19:25:22.02
縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭に、島根県・愛媛県・高知県から

東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県にいたるまでの広域で

阿波産の泥質片岩製石棒をはじめとして、緑色片岩製の柱状片刃石斧・辰砂・蛇紋岩製勾玉等を

西日本各地へ流通させていた。

そのため、「東阿波型土器」や積石塚(前方後円墳)も急速に全国に拡がっていった。   @阿波

212伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 2022/11/09(水) 19:34:44.99
古代の交易ネットワークは現代と遜色無いくらい広範囲に及ぶからね。

鉄道やトラックが無い分、速度は遅いけど、

213日本@名無史さん2022/11/09(水) 19:51:05.53
なるほど。リスクとリターンがペイできればいいので儲からない古代はゆっくりでいいし大冒険してもいいのか
儲けが計算できる中世になると逆に移動距離が短くなる…と

214日本@名無史さん2022/11/09(水) 20:12:11.36
>>213
>古代はゆっくりでいいし大冒険してもいいのか

その大冒険をしていたのが、「倭人(阿波勢力)」。
にもかかわらず、いまだに畿内説とか九州説を唱えるアホども。
なんの根拠もなく、いまだに畿内説とか九州説を唱えるアホども。   @阿波

215日本@名無史さん2022/11/09(水) 20:53:33.20
>>197

金属器の時代になぜ石器を使っているのか?

216日本@名無史さん2022/11/09(水) 20:56:48.96
>>202

ホケノの年代が1δの範囲に収まっている確率が65%、2δの範囲に収まっている確率が95%かな?
おそらく中央値は360年頃だろう。
卑弥呼から100年は後の古墳だよ。

217日本@名無史さん2022/11/09(水) 20:58:35.09
積石塚は拡がらない

218日本@名無史さん2022/11/09(水) 20:58:42.25
まあ、およそ90パーセントは4世紀だな。

219日本@名無史さん2022/11/09(水) 21:02:29.26
小枝など墓には使わん

220日本@名無史さん2022/11/09(水) 21:07:16.66
畿内説という学会?の壺は統一と同じ手口
霊感商法は犯罪ですよ

221日本@名無史さん2022/11/09(水) 21:09:38.79
>>184
そりゃ当たり前でしょ
1万年以上あるんだから縄文時代w

222日本@名無史さん2022/11/09(水) 21:09:38.89
>>215
弥生時代が奈良まで到来しなかったからですよ

魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

弥生時代の鉄器出土量
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

223日本@名無史さん2022/11/09(水) 21:14:59.74
前方後円墳、前方後方墳は神仙思想で仙人が住み、不死の薬がある東方海上の壺形の三神山(蓬莱・方丈・瀛(えい)州)
瀛州(えいしゅう)は転じて日本を指す、日本の雅称

224日本@名無史さん2022/11/09(水) 21:28:51.39
>>222
>鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。

その大冒険をしていたのが、「倭人(阿波勢力)」。
にもかかわらず、いまだに畿内説とか九州説を唱えるアホども。
なんの根拠もなく、いまだに畿内説とか九州説を唱えるアホども。   @阿波

225日本@名無史さん2022/11/09(水) 21:31:43.88
ちょっと一息
「邪馬台」は「シャマダー」と読みます
ツングース語で巫女のことを「シャマン」と言います
巫女の多い国=シャマンダー国を中国漢字で「邪馬台国」と表記していたのです
つまり一つの国の名前ではなく、倭人の文化をもとにした日本列島の呼称なのです

226日本@名無史さん2022/11/09(水) 21:37:27.50
魏志倭人伝には阿波の事も畿内の事も書かれていない

227日本@名無史さん2022/11/09(水) 21:53:59.19
その倭人の文化に取り残されていたのが奈良盆地

228日本@名無史さん2022/11/09(水) 21:56:35.33
海の無い奈良がどうやって文化の中心地となり得たのか

229日本@名無史さん2022/11/09(水) 21:57:37.80
いいや、なり得るはずがない

230日本@名無史さん2022/11/09(水) 22:16:48.29
倭人はツングースではなく、夏后少康之子が封じられた会稽あたりと同じ文身の風習があり、
有無する所は?耳、朱崖と同じと書かれている

231日本@名無史さん2022/11/09(水) 22:19:37.90
?耳、朱崖と同じ
 ↓
タン耳、朱崖と同じ

232伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 2022/11/09(水) 22:26:30.43
>>228
海に近いのはメリットが多いが、デメリットもある。
奈良盆地は、適度に海から離れているが、河川を利用した水運の便は有った。

バランスがその時代なりに良かったんじゃ無いかなぁ?

233日本@名無史さん2022/11/09(水) 22:28:23.15
海の無い滋賀は文化の中心になった

234日本@名無史さん2022/11/09(水) 22:32:40.41
>>222
現地の倭人であって出かけていったってのは違うと思うがな

235日本@名無史さん2022/11/09(水) 22:36:31.91
>>224
はるばる高句麗から鳥となって大陸の文化を伝えてくださったのですね。
それにしても半島から遠いのに四国にやって来る渡来神がいるのは何故でしょう?
『釈日本紀』巻六
伊予の国の風土記にいはく、乎知(越智)の郡。御嶋。坐す神の御名は大山積の神。一名は和多志の大神なり。この神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇(仁徳)の御世に顕れましき。この神、百済の国より度り来まして、津の国の御嶋に坐しき云々。御嶋といふは、津の国の御嶋の名なり。

236日本@名無史さん2022/11/09(水) 22:38:35.95
>>232

残念ながら、纏向遺跡からは大和川でつながっていたはずの河内と交流がなかったことがわかる。
山を越えて尾張とだけこうえきしていたので、河川交通の益がなかった。
畿内だって河川を使うなら淀川のほうがよほど便利。

237日本@名無史さん2022/11/09(水) 22:39:41.89
>>233

滋賀は淀川を通じて日本海と瀬戸内海をつなぐ要所だろう。
内陸で河川も利用できない大和とは訳が違う。

238日本@名無史さん2022/11/09(水) 22:50:26.46
勾玉は縄文の終わりから弥生の始めにかけて全国的に廃れるが
何故か北部九州でだけは勾玉が使い続けられていた
そしてその後、北部九州形式の勾玉が全国に広がる

古代は玉のことをヌとか二とか言った
奴国の名の由来は勾玉だろうな

239日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:02:32.56
>>216
3世紀も4世紀も否定はしてないのにおまえは明確に3世紀を否定してる
間違ってたらどうしてくれるの?

240日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:05:59.24
>>236
河内の土器も出てるから
河内も奈良も一体になってて土器の形状に違いは無いらしいけど

241日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:17:34.71
東征神話でも大和川の北までは征圧されるから北河内、生駒山地辺りはヤマト政権の支配下でしょうね

242日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:23:18.85
ごく最近まで畿内の人々は侵略者という謂れもないレッテルを貼り続けられていた
歴史は真逆
畿内の人々は旧石器時代からの営みを守りヤマト政権に抗い抜いた側
今までの定説は潰さないといけませんな

243日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:26:39.61
オオゲツヒメは、天地開闢からいるんだ。
おそらく、太陽だろうから、さもありのんだが

244日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:30:13.40
今晩、創価に、頭内音声などで、意識化ヘナヘナになり、力も入らなくなり、立てずトイレにも行けなくなり、本当に殺されると思ったのですが、精神薬と睡眠薬、それから妻の献身で、何とか持ち直すことができました。
恐らく、睡眠薬で一時寝てしまったのが功を奏したようです。
こう書いてしまうと、悪側にヒントを与えてしまうようですが。

245日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:32:50.82
>>228
3世紀時点の奈良は墓域(空き地)だ

246日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:37:15.99
前方後円墳は渡来人がイメージする倭がモチーフだったのでは無いかと妄想する
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

247日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:39:08.75
箸墓古墳
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

248日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:40:21.93
筆舌に尽くしがたいですが、本当に死ぬ寸前まで行きました。
私は、殺されるとか、死ぬと言う言葉は今までに使ったことはないはずです。
創価は、金がかかるから、もう出来ないと言っています。
睡眠薬を飲んで寝てしまえば、無効ですからね。

249日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:47:01.72
オオゲツヒメのような死体から作物が生まれるハイヌウェレ型神話は
タロイモどの根栽農耕文化の神話

250日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:48:47.71
前方後円墳は対馬の姿に似せていると?
面白い。

251日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:59:13.89
阿波が言う通り前方後円墳は何故バラバラの方向を向いてるんだろう?
儀式に使うなら同じ方向を向いてて良いと思うんだけど
あんな巨大なのちゃんと測量やってるはずだしわざとだよね

252日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:59:30.58
>>250
もしくは半島を離れる時に船上から見た故郷の景色だったかも知れません。

253日本@名無史さん2022/11/10(木) 00:02:35.95
>>251
ボタ山みたいなものだったから

254日本@名無史さん2022/11/10(木) 00:18:05.05
前方後円墳は規模が大きいので尾根先端部を利用してる場合が多い
畿内の前期前方後円墳の埋葬頭位は北枕志向

255日本@名無史さん2022/11/10(木) 00:22:24.10
>>101 >>243
いません。天地開闢は別天津神と神世七代。穀物の神なので早めに生まれた事にされただけでしょう。実際の系譜では大年神の息子の嫁ですから須佐乃男命の孫世代となります。
式内社・大宜津比売神社は存在せずその信仰は古いものとは言えません。隠されていた古事記が世に出てからの信仰でしょう。阿波忌部の祖、天日鷲命の母神ながら記紀に登場しない八倉比売の祭祀を怠り、祭神を差し替えてしまうという(宮司家の入れ替わりもあったが)そのミーハーっぷりにはかつて忌部の面影はありません。
特に阿波国と関係あるわけでもなく、讃岐の飯依比古(飯神)と対になる存在として阿波=粟の女神とされただけでしょう。土佐と伊予も男女のペアになっていますが建依別に関しては式内社どころか祀る神社がありません。四国の国玉神は古い信仰ではないと断言できます。

256日本@名無史さん2022/11/10(木) 00:34:13.83
>>255
一番最初の国生みは淡路と四国じゃなかったっけ?

257日本@名無史さん2022/11/10(木) 00:41:45.15
江戸期には八倉比売が何者かすらわからなくなってしまい、あろう事か「大日靈女命」と同体などと言う神社が現れました。
延喜式・天石門別八倉比売神社は大社なのですが、勝手に名神大社も名乗っています。
歴博同様にこのような歴史の改竄を目論む連中は晒し上げ断罪せねばなりません。
https://bqspot.com/shikoku/tokushima/569

258日本@名無史さん2022/11/10(木) 00:47:28.06
>>256
古事記と日本書紀で順番が違います。
日本書紀は異伝を含めて6パターン。
本文では淡路、本州、四国、九州・・・ですね。

259琪瑛教祭酒2022/11/10(木) 01:24:28.88
古墳の方角は、おそらく、三合の秘術であろう。

260琪瑛教祭酒2022/11/10(木) 01:27:26.45
ゆえに、なんら不自然さもなく、辻褄が合うのが我が姫なのよ。

261琪瑛教祭酒2022/11/10(木) 01:32:11.19
オオゲツヒメは確実にばんこしんわを読んで書いたもんだわね

262日本@名無史さん2022/11/10(木) 07:34:04.42
>>251
>阿波が言う通り前方後円墳は何故バラバラの方向を向いてるんだろう?

古墳の大きさは、「倭人(阿波勢力)」臣下豪族の勢力誇示 だと何度言えばw     

だから、奈良湿地も河内湿地も古墳の大きさも墓の向きも墳型もてんでんばらばら、好き放題。   @阿波 

263日本@名無史さん2022/11/10(木) 07:38:11.28
>>256

国産みのはじめの淤能碁呂島は、博多湾の能古島。

264琪瑛教祭酒2022/11/10(木) 07:49:38.45
陰陽は詳しく知らんのだが、
箸墓の方角が一番運気の強い者でもある可能性がある。

265日本@名無史さん2022/11/10(木) 07:53:19.73
箸墓古墳は大物主を祀った渡来系物部氏の墓か作った墓だと思う

266日本@名無史さん2022/11/10(木) 08:04:46.23
>>265
いきなりなんでそんなもん造ると思うんだよ?

267日本@名無史さん2022/11/10(木) 08:15:08.64
>>266
力の誇示だろう

268日本@名無史さん2022/11/10(木) 08:21:46.78
>>267
他にないのを何故造るのか?

269日本@名無史さん2022/11/10(木) 08:32:26.28
>>268
石上神宮も作っている

270日本@名無史さん2022/11/10(木) 08:43:39.29
杣之内古墳群も物部氏のものと言われている

271日本@名無史さん2022/11/10(木) 08:46:03.40
杣之内古墳群
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

272日本@名無史さん2022/11/10(木) 09:08:31.97
スジンの頃、今みたいにとんでもない疾病が流行っただろ
その原因が56された安倍晋三だと思い
それを鎮めるために箸墓つくったんだろ
で、モモソ姫は奥さんだから一緒に入って奉られてる、と

これだよね、普通w
モモソ姫単独の墓では無いと

273日本@名無史さん2022/11/10(木) 09:23:09.21
これ見て思ったのだけど、纏向遺跡は幕屋だったでは無いのかな?



邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

274日本@名無史さん2022/11/10(木) 09:34:52.79
>>273
いや纒向のは盆踊りステージだよ

275日本@名無史さん2022/11/10(木) 09:42:01.12
やがて纏向の移動式神社の幕屋は石上神宮に移動し纏向から消えた。市があったのは祭の出店だったのだろう

276日本@名無史さん2022/11/10(木) 10:03:13.74
>>270
>杣之内古墳群も物部氏のものと言われている

誰に?

277日本@名無史さん2022/11/10(木) 10:05:29.45
纏向遺跡復元図
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
石上神宮見取り図
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

似てませんか?

278日本@名無史さん2022/11/10(木) 10:11:35.93
>>276
杣之内古墳群 物部氏で検索するよろし

279日本@名無史さん2022/11/10(木) 10:50:20.06
>>277
纒向想像図の縮尺がおかしい
大型建物とは言うが実際にはちょっと広い平屋の戸建てぐらいだぞ?
柱が細過ぎて高さのある建物は構築出来ないんだし
周りの小さいやぐらは一般家庭の物置ぐらいの大きさだろ

280日本@名無史さん2022/11/10(木) 11:07:29.71
>>279
大きさは大して問題では無いだろう。移動式拝殿としての神輿でも役をするわけだから

281日本@名無史さん2022/11/10(木) 11:15:14.52
纏向は長屋跡

282日本@名無史さん2022/11/10(木) 11:43:28.71
>>278
物部氏も、「倭人(阿波勢力)」のうちの一部族に過ぎん。   @阿波

283日本@名無史さん2022/11/10(木) 12:10:29.07
>>277

石上も中庭に倉があるんだ。
ますます纏向遺跡と同じ。
崇神天皇は物部氏の親戚なので、同じ作りなのですね。

284日本@名無史さん2022/11/10(木) 12:11:46.08
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
似てませんか?

285日本@名無史さん2022/11/10(木) 12:32:46.60

286日本@名無史さん2022/11/10(木) 12:34:58.43
>>284
似ていると思いますが、五重の塔付きの別荘とか贅沢ですね

287日本@名無史さん2022/11/10(木) 12:42:29.24
桜に幕

288日本@名無史さん2022/11/10(木) 12:56:43.80
物部氏のその後のヤマト王権での天皇と比する影響力を見れば、物部氏が纏向箸墓の建造に関わったと考えるのは普通だと思う

289日本@名無史さん2022/11/10(木) 13:23:50.52
物部守屋が蘇我氏に敗れたことにより、物部氏が中心になって進めてきた前方後円墳は造られなくなり、勝利した蘇我氏の方墳に代わっていった。つまり箸墓古墳からの前方後円墳の時代が物部氏と共に終わりを告げたのです。

290日本@名無史さん2022/11/10(木) 13:27:30.56
石上神宮は兵器庫や倉庫でした。戦乱になったら真っ先におさえる拠点でした。

291日本@名無史さん2022/11/10(木) 13:46:26.10
七支刀で刺されたら痛そうだ
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

292日本@名無史さん2022/11/10(木) 13:53:13.19
>>278
答えられないの?

293日本@名無史さん2022/11/10(木) 13:56:49.62
>>292
ググる事もできない無能かよ

294日本@名無史さん2022/11/10(木) 14:43:07.04
>>293
回答できない奴が無能

295日本@名無史さん2022/11/10(木) 14:46:47.90
回答出来ないのではなく、無能を相手にしないだけだ

296日本@名無史さん2022/11/10(木) 14:57:30.78
物部氏は物部神道の奥義である「多次元同時存在の法則」を持つ渡来人なので、崇仏派の蘇我氏とは敵対したのだろう

297日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:01:45.74
>>296
物部氏が渡来人ってどういう定義?
伊香色雄命が大陸か半島からやって来たわけではないだろう。誰が来たの?

298日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:04:49.54
>>297
徐福。

299日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:05:42.61
杣之内古墳群でもっとも古い西山古墳(4世紀)は183mの前方後方墳
4世紀前半の前方後円墳は西殿塚古墳(230m)、メスリ山古墳(224m)

300日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:07:21.08
4世紀前半に行燈山古墳(242m)追加

301日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:10:43.86
渡来人を連発している人は薄汚い半島系の壺人。

302日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:12:46.82
>>298
徐福www 正気かwww
ないわーwwwwww

303日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:14:15.26
3世紀後半の前方後円墳を4世紀前半と戯言を言っている人はキムチ系九州人。

304日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:19:36.73
物部氏の始祖は神武より先に天孫した饒速日だからね

305日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:25:44.85
>>250
ハレー彗星

306日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:28:18.82
日本独自の物も渡来人
バカだろ

307日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:30:23.96
当時モノノベなんて居ねえ

308日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:35:20.97
古代日本に渡来人が文化的影響を与えたなら漢字が普及しているはずだが普及していない。

309日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:36:17.57
>>303

西殿塚?
3世紀後半に確定した?

310日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:37:08.40
>>306
独自の物って何?

311日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:39:15.18
>>310
前方後円墳がどこにあるんだよ?

312日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:40:17.03
>>308
隋書の秦王国では使われていたのでは?

313日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:42:47.25
>>311
渡来人が前方後円墳を創造してもおかしくは無い

314日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:44:23.35
>>313
だから渡来人なのか?
頭おかしいだろ

315日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:44:35.96
前方後円墳を作ったのは物部氏で、物部氏は渡来系

316日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:45:44.81
物部氏は渡来系????????????????

317日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:47:24.33
渡来人も日本人も特に区別の無かった時代なんだからさあ

318日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:48:51.66
>>317
まあそういうこった
考えることに意味がない

319日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:55:15.17
その後秦氏が渡来して聖徳太子をサポートしている、京都を作ったのも渡来人の秦氏である

320日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:59:29.43
>>319
それが邪馬台国とどう関係すんの?www
チラシの裏へどぞ。

321日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:02:55.89
蘇我が渡来人でも日本人でもどうでもいいのよ
邪魔な朝敵を討っただけの話

322日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:03:06.80
有名な渡月橋に堰を作って灌漑用水を引いたのも渡来人の秦氏です

323日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:05:35.48
>>320
逆に物部氏と卑弥呼にどんな関連があるのだろうか?

324日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:06:47.60
>>323
ないな

325日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:10:01.23
太秦映画村を作ったのは渡来人の秦氏です。

326日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:10:35.24
いくら考えても出自なんかわかるわけねえじゃん

327日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:11:04.92
>>324
じゃあ箸墓古墳と卑弥呼は関係ないな

328日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:11:57.47
任天堂を作ったのは渡来人の秦氏です。

329日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:22:52.20
>>326
お前は自分のルーツはどこまで把握してるの?

330日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:25:01.69
>>329
何の話だ?
蘇我や物部の事なんかわかるわけない

331日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:26:23.29
>>330
お前自身のルーツの事を聞いている

332日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:28:34.30
>>331
それ聞いてどうなるのよ?
おまえ気の利いた返事しないでしょ

333日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:29:44.16
少なくとも家の菩提寺があれば過去帳で先祖を辿る事は出来るだろう

334日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:31:37.23
>>332
自分のルーツも探せない人間に邪馬台国探しなんかおこがましいわ。

335日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:32:04.97
>>295
議論に負けたら罵ればいいと思ってるのは隣国人

336日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:33:23.05
>>333
それがなんなのよ?
なるほどなとか、真意はそうだったのかとか思うようなレスは
お前から絶対返って来ないから

337日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:34:31.89
>>327
>じゃあ箸墓古墳と卑弥呼は関係ないな

その結論は歴史と関係ないな

338日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:34:56.49
>>336
ルーツがわからないのはよくわかった

339日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:36:51.99
>>337
箸墓古墳と卑弥呼が関係無かったら畿内説はメルトダウンするけどな

340日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:37:27.88
>>338
お前のルーツはどこかの白丁?

341日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:37:56.23
>>334
相変わらず権威に弱いね
俺が孤児だったら信用できないの?

342日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:38:45.67
>>339
だから九州説が理屈抜きで無関係にしたがって自滅中だ

343日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:39:09.78
>>340
平安時代にはとある神社の神官だけど

344日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:40:28.20
>>341
頑張って生きてくださいね

345日本@名無史さん2022/11/10(木) 17:08:26.38
月の神さまと風の神さまと梅
古市古墳群の辺りは磯長、軽里で風の神さまの地かな
梅の土師氏の拠点でもある

346日本@名無史さん2022/11/10(木) 17:29:10.47
>>342
理屈抜きで関連づけようと霊感商法を展開する畿内説が何言ってんだよ

347日本@名無史さん2022/11/10(木) 17:35:24.08
畿内説は日本の学者の通説
小説から始まった一人一説が雑多九州説

348日本@名無史さん2022/11/10(木) 17:42:12.18
>>346
そうやって中傷しか出来ず、全く反論ができないのが
九州説お亡くなり済みの証拠
旧石器捏造とは無関係な歴博をデマ中傷で攻撃したり
九州じゃなくてクズ説だ

349日本@名無史さん2022/11/10(木) 17:44:22.38
>>347
通説ってのは時代に応じて訂正されるもんだし
その通説が歴博の不正の上に成りったってるんだから目も当てられない。

350日本@名無史さん2022/11/10(木) 17:46:18.54
畿内説は学問なので、築造年代は範囲内だけども調査できない箸墓古墳を
卑弥呼の墓だと言っている学者は多くなかろう

351日本@名無史さん2022/11/10(木) 17:46:37.75
>>348
歴博だけじゃない。考古学会が嘘でもいいから話題が欲しいかった。

捏造石器からナウマン象の脂肪酸を検出したという研究結果が、帯広畜産大学から報告され、捏造石器の信憑性の補強に使われた。【国立歴史民俗博物館館長の佐原眞】は、この情報によって、反対意見を発表した小田静夫氏を名指しで批判し、旧石器発掘に対する反対意見を封じ込めた。捏造石器にナウマン象の脂肪酸が付くわけがない。捏造を補強する共犯者といわれても仕方がない学者たちがいたことになる。 
国の機関が、反対意見を名指しで批判し、力ずくで発言を封じてしまうのは学問の世界では異例のことであった。

352日本@名無史さん2022/11/10(木) 17:50:53.26
>>349
ほら
なんも証拠のない中傷しかできない九州説は死んでる

353日本@名無史さん2022/11/10(木) 17:51:47.24
>>351
>国の機関が、反対意見を名指しで批判し、力ずくで発言を封じてしまうのは学問の世界では異例のことであった。

それ、捏造だよね?

354日本@名無史さん2022/11/10(木) 17:55:46.53
理論なき考古学 細谷 葵(ケンブリッジ大学)
http://www.okayama-u.ac.jp/user/arch/news/whatnew/hosoyaj.html

日本の考古学の思考は「群盲象を撫でる」

355日本@名無史さん2022/11/10(木) 17:57:10.03
『魏志倭人伝には、「倭人は鉄鏃(てつぞく:鉄のやじり)を使う」と記載されているのに、福岡の460に対して、
卑弥呼時代の奈良には鉄の鏃は4つの出土例しかありません。そしてもと歴博の館長もやった佐原真は、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」とマジで答え、さすがにこれには近畿圏の学者たちも沈黙していました。
春成秀爾はこの佐原真の弟子です。この一連のマスコミ操作は、いったい何が目的なのでしょうか?』

356日本@名無史さん2022/11/10(木) 17:58:24.48
>>353
そう思いたいね。悲しいね。

357日本@名無史さん2022/11/10(木) 17:59:01.03
>>355
4つでも使ってるだろ

358伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 2022/11/10(木) 18:00:47.03
「神の手」にだまされた研究者、「お前はグルかバカか」迫られた問い…2000年11月「あれから」<20>

https://www.yomiuri.co.jp/national/20220212-OYT1T50255/amp/

359日本@名無史さん2022/11/10(木) 18:01:36.13
アホの九州説の捏造
奈良県の骨董屋から買って来た鉄鏡を遺跡から出土したと捏造。
最古の漢字で書かれた墨書文字を捏造。マジックで書かれていた。
平原遺跡の墳丘墓を卑弥呼の古墳と捏造。不都合になったら卑弥呼のお母さんの古墳と言った。

360日本@名無史さん2022/11/10(木) 18:13:09.94
>>359
奈良の骨董屋?

ああ纒向(大市)の市場の事ね

各地から持ち寄ったものを物々交換してた時代だから何処の出土品か分からないね確かに

361日本@名無史さん2022/11/10(木) 18:19:58.95
結局素人の発掘ではダメだということ

362日本@名無史さん2022/11/10(木) 18:34:23.21
素人の発掘を批判したのは旧石器時代が専門の学者
学術調査研究成果よって学者の通説が畿内説
小説から始まった一人一説がど素人の雑多九州説

363日本@名無史さん2022/11/10(木) 18:34:26.86
>>356
> そう思いたいね。悲しいね。

でもやっぱりウソで、なにも証拠のない捏造なんでしょ?
九州説には困ったものだ

364日本@名無史さん2022/11/10(木) 18:48:18.25
>>222
>鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。

その大冒険をしていたのが、「倭人(阿波勢力)」。
にもかかわらず、いまだに畿内説とか九州説を唱えるアホども。
なんの根拠もなく、いまだに畿内説とか九州説を唱えるアホども。   @阿波

365日本@名無史さん2022/11/10(木) 18:50:46.22
>>222

弥生人ではなくて、魏(220年 - 265年)の時代は古墳時代

366日本@名無史さん2022/11/10(木) 18:52:34.99
畿内説は統一狂学会の壺
歴博とメディアの作った壺を
霊感商法で販売する簡単なお仕事です

367日本@名無史さん2022/11/10(木) 19:01:20.71
>>238
つまり弥生遺跡から勾玉が出土する地域は奴国の影響下にある

倭王は鏡の前に勾玉を配ってたんだな

368日本@名無史さん2022/11/10(木) 19:10:52.65
>>366
ほら
そんな中傷ばかりして、まったく内容に反論出来ないのは
もう九州説が死んでる証拠だ

369日本@名無史さん2022/11/10(木) 19:19:56.58
>>368
このスレで1番中身のない誹謗中傷やってるの、君自身だと思うんだけど

370日本@名無史さん2022/11/10(木) 19:21:29.07
>>369
という証拠は?
証拠がなければ、キミの投稿は中傷だ

371日本@名無史さん2022/11/10(木) 19:29:04.44
>>370

>ほら
>そんな中傷ばかりして、まったく内容に反論出来ないのは
>もう九州説が死んでる証拠だ



366の内容には反論せず中傷と断定し九州説が死んでると根拠の無い中傷ばかりしているのが証拠

372日本@名無史さん2022/11/10(木) 19:38:04.72
>>371
366の内容には反論せず?

中傷だと断定するのは>>366の内容への反論でしょ

373日本@名無史さん2022/11/10(木) 19:43:29.88
>>371
畿内説の内容には反論せず中傷ばかりしてるのって、九州説が死んでると判断できる根拠では?

374日本@名無史さん2022/11/10(木) 19:44:31.87
>>373
その畿内説ってどういう説なんだよ?
A4一枚でまとめてみろ

375日本@名無史さん2022/11/10(木) 19:45:32.16
幼児みたいな言い返しして墓穴に自ら収まる九州説
w

376日本@名無史さん2022/11/10(木) 19:53:01.29
>>374
弥生時代の後期には、すでに大きな墳丘をもつ墓が各地で営まれていたが、3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現した。
これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、長い木棺を竪穴式石室に収めた埋葬施設や、多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた。
 それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。
 この政治連合には、三世期前半のうちから博多地域が参加していた。
ゆえに。邪馬台国は畿内にあり卑弥呼は奈良県にいた。

377日本@名無史さん2022/11/10(木) 19:59:00.55
当時の状況をよく考えて中国的視点で魏志倭人伝を解読しましょう

倭国大乱後に卑弥呼が女王となった事は中国でも話題となり、倭国に関する情報が多々存在していた。
陳寿はそれらの情報を精査し魏志倭人伝の下書きを作成していた。
そこへ女王国から倭人が朝貢に来たので更なる情報を要求したところ

以下、倭人による行程説明
・帯方郡から船で20日南下し、そこが投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸ししばらく歩きます
・計約一月を要します

倭人が半島南部を投馬国、北部九州を邪馬台国と呼んでいる事を知らなかった陳寿は
よく意味が分からず既存の行程の後に追記してしまった

この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説
日本列島を指すと解釈すれば西日本全域何処とも考えられる
しかし、女王国の西側の国については一切触れられていないので、女王国の場所は
西日本の中でも一番西に位置するはずである
東には海が有りそれを渡るとまた倭種の国があった
そして南に狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した
そういう時代の記録なのです

参考図
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

378日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:00:41.76
>>372
それが反論になるなら君が畿内説への中傷だとするものも全て反論になるね

379日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:03:10.70
>>378
なるって理由は?

380日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:04:10.64
>>376
巫女が首長の墓制を統一したとか、それが前方後円墳だとか、どこにそんな記録が書いてあるんだ?

すくなくとも墓の形式や祭祀については各時代ごとの倭人伝にも記されておりそこに女王が関与した話は一切出てこない

381日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:05:39.58
現在の畿内説は100%妄想作文で構成されています

382日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:06:16.47
>>377
>しかし、女王国の西側の国については一切触れられていないので、女王国の場所は
西日本の中でも一番西に位置するはずである

383日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:06:17.13
>>377
>しかし、女王国の西側の国については一切触れられていないので、女王国の場所は
西日本の中でも一番西に位置するはずである

384日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:08:45.14
>>377
どうして?
余旁国が西にあるかも知れないでしょ?

385日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:12:44.18
>>376
畿内の政治連合と卑弥呼をどうにかして結びつけないと成り立たない説ってことだな
その努力の跡が南→東説だったり遺跡の年代操作だったりするわけだ

386日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:14:25.42
>>380
墓制が民族のアイデンティティだという話は出てますな

387日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:16:48.87
>>385
年代操作とか言うのは九州説特有のデマだな
いくら聞いてもこんくぉ言わないから

388日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:17:21.60
>>384
末盧国が上陸地点であるかのように行程が説明されており南東へ約500里で博多付近
そこから南へ下ったなら筑紫平野
その筑紫平野から見れば長崎県、大分県が余旁国に該当し、十分に遠い国だよ
自分で歩いてみろよ

389日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:19:12.07
>>385
> 畿内の政治連合と卑弥呼をどうにかして結びつけないと成り立たない説ってことだな

結びついちゃったから九州説が成り立たない説になった、って経緯でして

390日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:21:04.12
>>389
>結びついちゃった

というのが妄想100%で、だろ?

随分と日本語文章に不慣れなんだな

391日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:22:07.79
>>388
>その筑紫平野から見れば長崎県、大分県が余旁国に該当し、十分に遠い国だよ

つまり、「女王国の場所は 西日本の中でも一番西に位置するはずである」と言ってたのはウソでした

392日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:22:27.88
>>389
>>380の通りなんの関連性も見られませんが?

393日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:23:27.10
>>390
不満なら反論してね

394日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:23:49.65
>>391
頭わるい?
長崎~大分まで含めて女王国なんだぞ?

395日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:24:27.03
>>393
反論する対象はどれだよ?
お前の脳内妄想か?

396日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:24:53.05
>>392
>>380の通りなんの関連性も見られませんが?

という根拠は?

397日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:25:14.09
ずらした方角と操作した年代が畿内説の こんくぉ なんですね

398日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:25:33.91
>>396
関連性があるという根拠を示せよ

399日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:26:26.23
畿内説は3世紀の邪馬台(やまと)ならば大和国に他ならないという情弱江戸時代に端を発し戦後の記紀軽視でどうにか残ったアホバカ理論。消滅寸前でまさかの歴博捏造で「通説」に成り上がった。

400日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:27:34.37
>>395
> 畿内の政治連合と卑弥呼が結びついちゃったから、九州説が成り立たない説になった

401日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:29:06.48
>>399
ほんとそれ
「壹」をトと読んでしまうほど識字率の低い時代だったから仕方ない面もあるが
言っちゃわるいけど、歴博って代々頭悪いんだね

402日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:30:03.54

403日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:32:40.89
墓制が統一したのが中央政権だなんて言ってるが、4世紀の纒向近辺に前方後方墳が造られてるだろ

404日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:33:10.53
>>398
>関連性があるという根拠を示せよ

年代は3世紀前半
畿内式の葬制と儀礼が博多まで及んでいる
ヤマトを中心とした政治連合に加わったからである

405日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:35:05.08
>>403
>墓制が統一したのが中央政権だなんて言ってるが、4世紀の纒向近辺に前方後方墳が造られてるだろ

それは格式の差

406日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:36:08.71
>>404
あらら、もう妄想作文しか返せないんですか?
女王が墓制を統一したという記録はどこにあるのですか?

407日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:36:36.90
>>402
根拠はないの?

408日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:36:47.79
>>405
と想像してるんですね
なるほど

409日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:37:23.37
>>407
お前に聞いてるんだよ
さっさと答えろよ

410日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:38:42.13
>>404
葬制と儀礼を女王が仕切ったという文献記録と証拠は?
倭人伝か記紀で示せよ

411日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:38:45.30
>>394
>頭わるい?
>長崎〜大分まで含めて女王国なんだぞ?

根拠は?

412日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:42:16.84
>>399
>畿内説は3世紀の邪馬台(やまと)ならば大和国に他ならないという情弱江戸時代に端を発し戦後の記紀軽視でどうにか残ったアホバカ理論。

平安時代からだけど、知らないの?

>消滅寸前でまさかの歴博捏造で「通説」に成り上がった。

証拠は?
畿内説は前から圧倒的に優勢だけど?

413日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:45:00.86
>>397
>ずらした方角と操作した年代が畿内説の こんくぉ なんですね

操作した年代とか誹謗する根拠は?

414日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:45:34.67
>>411
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

弥生時代の鉄器出土量
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

そして長崎県大村湾周辺には弥生時代の集落(富の原など)が多数あり、鉄器文化が進んで居たことも確認されている
弥生時代末期「ムラのナイフ工房」跡か 長崎で見つかる
https://www.asahi.com/articles/ASN2674JRN26TOLB001.html

415日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:46:57.05
>>413
>>198とか

ホケノは前方後円墳のプロトタイプだと言ってたくせ箸墓より新しいんかい?

416日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:47:30.55
>>410
>葬制と儀礼を女王が仕切ったという文献記録と証拠は?

葬制と儀礼を女王が仕切ったなんて誰も主張してないが?
九州説はまた捏造?

417日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:48:47.45
>>416
聞いたことに答えろよ
どこにそんな記録があるんだ?
無かったらお前の勝手な想像で終了だが?

418日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:50:09.01
>>408
>と想像してるんですね

いや、通説

419日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:51:53.32
>>415
>ホケノは前方後円墳のプロトタイプだと言ってたくせ箸墓より新しいんかい?

ホケノ山は箸墓より古い

420日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:52:42.90
>>404
その3世紀前半という年代が疑われてるのでは?

421日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:54:28.49
>>406
罵っても反論になりません

>女王が墓制を統一したという記録はどこにあるのですか?

そんなこと主張してないので畿内説に関係なし

422日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:55:12.18
3世紀前半の纒向で何人もの首長が一辺に死んだのか?
あほくさ

423日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:55:46.81
>>420
>その3世紀前半という年代が疑われてるのでは?

理由なく疑っても反論になりません

424日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:56:40.83
>>421
記録文献と何の関連性も無い想像をあたかも事実の様に述べる行為はデマ拡散罪に該当します

425日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:57:22.09
>>423
理由>>198

426日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:58:32.97
>>422
>3世紀前半の纒向で何人もの首長が一辺に死んだのか?

半世紀あれば何人も死ぬでしょう

427日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:58:59.45
>>380

巫女が首長の墓制を統一したなどとは>>376には書いてない

428日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:59:01.21
>>359

卑弥呼の墓である平原遺跡を、卑弥呼の母云々と言い訳しているのは畿内説
平原遺跡の築造年代が卑弥呼の治世ドンピシャだからね

429日本@名無史さん2022/11/10(木) 20:59:53.65
>>409
>お前に聞いてるんだよ
>さっさと答えろよ

何を?

430日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:00:31.87
>>427
じゃあ卑弥呼と関係ないじゃん
「関係ある」事を示せない=「関係ない」
学問舐めすぎだろ

431日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:01:04.26
>>428
>卑弥呼の墓である平原遺跡を、卑弥呼の母云々と言い訳しているのは畿内説

してません

432日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:03:12.37
もう畿内説無理
一番古い前方後円墳を探してそこから金印が出て来ない限り
あり得ない話でオワコン確定

433日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:03:15.81
>>428

九州大学の調査参加を拒絶し、ど素人が掘り繰り返した平原1号を
その後学者が学術調査して築造年代は200年ころ(ⅠA期の終わりころ)と推定されている

434琪瑛教祭酒2022/11/10(木) 21:03:41.41
平原は1つ前の漢鏡。
卑弥呼は広漢神獣鏡。

435日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:04:13.09
城野遺跡もだな
畿内説の工作で潰されかかった

436日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:05:09.02
>>430
>じゃあ卑弥呼と関係ないじゃん
>「関係ある」事を示せない=「関係ない」

どうして
「関係ある」事を示せない
になるの?

437日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:05:32.84
>>436
示してないじゃん

438日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:06:50.23
>>430

国を治めるのは卑弥呼の弟が佐けている

439日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:08:45.26
>>438
頭わるいの?
弟と前方後円墳を関連づける証拠は?

本当に学校出てるの?

440日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:11:26.75
>>439

>>380の巫女が首長の墓制を統一したというのはお前の妄想

441日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:12:39.64
>>440
じゃあ誰が統一したんだよ?

442日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:13:37.64
現時点、畿内説は100%妄想です

443日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:15:49.20
>>441

統一したとは書かれていない
>>376には、
大規模な前方後円墳が造られた背景には古墳の出現に先だって
広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
と書いてある

444日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:18:54.80
>>437
3世紀前半から大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていて
博多までその一員だったと言えば
その勢力が卑弥呼と関係あることが示されてますが?

445日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:18:59.08
「倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国なり。」

これは明らかに九州の事を書いていると思うが、漢の時に朝見した者が畿内に居たのかな?

446日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:20:16.27
>>442
という理由は?

447日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:21:18.10
曽我氏の仏教導入に物部氏が頑強に反対したのは、物部氏こそ天照大神の直系の天孫族であり、神道の祖先崇拝の祭祀を司ることでヤマト王権における立場を維持していたからだ。
つまり物部氏は渡来人ではなく、生粋の倭王の家系。

448琪瑛教祭酒2022/11/10(木) 21:22:49.43
いないと思うよ、1.もそうなっている。漢(倭奴国の時)までは九州を否定していない。

449日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:22:57.02

450日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:23:27.47
>>425
それ、理由にならないから

だってそのグラフを見てホケノ山が四世紀とか言ってる学者いないでしょ?
文系素人の錯覚です

451日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:25:56.20
>>445
畿内は朝貢しなかった70国の一部でさ、九州の倭人に聞いてもよく知らないから東の倭種の国と書かれて終わり

452日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:26:17.53
>>449
記録文献と何の関連性も無い想像
だとか断定する理由は?

453日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:26:26.14
>>434

漢鏡の次の国産鏡が出ているから、平原遺跡は後漢滅亡後つまり卑弥呼の治世の倭国女王墓。
卑弥呼以外に誰がいる?

454日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:28:22.54
>>451
それ、記録文献と何の関連性も無い想像
だよね

455日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:28:34.76
>>452
だから関連性を示せよバカ

「日本人はシュメール人の末裔だと考えられる」

お前が言ってるのはこれと同じレベル

456日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:30:15.73
>>453

後漢末期には公孫度が黄巾の乱以来の混乱に乗じて遼東地方に半独立政権を樹立した

457日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:32:02.00
>>445
意味不明
漢の時、朝見する者有り。
卑弥呼時代
今、使訳通ずる所は三十国なり。

458日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:32:16.32
>>454
昔の倭国は100国あったが、最近女王国となって30国が朝貢してきました
そして女王国の東の海を渡るとまた国々があり皆倭種だった

この東の倭種の国が残りの70国であるというのは十分に「推測」に値する
推測と想像の違いすらわからないのがお前

459日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:34:15.35
>>453
漢鏡六期止まりで七期が出てないから、公孫氏の台頭前くらいだね
西暦200年少し前くらいに死んだ名もない伊都国の女王だろう

460日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:34:23.69
孤軍奮闘する>>1は理系どころか文系でも無いただの無職

461日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:34:55.30
>>445

漢の時に朝見したのは、卑弥呼が共立された倭国の一番南にあった国

462日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:35:14.15
>>444

そんな政治連合、夢だよ。

463日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:36:32.94
>>459
平原古墳では棺の副葬品から女性だと推定されてるね
纒向ではまだ女性らしき埋葬者は発見されていない

464日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:36:45.08
>>458
200年間も国家統一がまったく進んでないってのは妄想でしょ

465日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:37:56.52
>>462
うめいてないで反論してね

466日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:38:01.22
>>463
被葬者がいない以上
残念だな。

467日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:39:06.41
>>464
現実だよ
馬も居ない時代なんだから広域しかも飛び飛びの地を連合化するなんて不可能だろ常識的に

468琪瑛教祭酒2022/11/10(木) 21:39:07.10
>>453.卑弥呼の墓なら、その後

内向花文鏡が拡がってなければならないし、卑弥呼の時代に中華で内向花文鏡はもう廃れている。曹叡は特別に卑弥呼の好物を与えるが花文鏡の訳がない。卑弥呼は漢中、神獣鏡なんだよ。
大体内向花文鏡なぞ神器にならん。

469日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:39:52.45
>>465
おまいう

470日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:40:01.08
>>463
女性の墓だと伝承のある後円部径百歩ばかりの大きな墓は有るけどね

471日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:41:12.77
>>459

公孫氏によって漢との交流が途絶え、世界最大の銅鏡を作るまで時間がかかったはず。
200年よりかなり後でなければいけない。

472日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:43:04.64
>>470
伊都だけでなく九州では古墳に女性が埋葬されていたケースが多数発見されている
そうした女王の存在を匂わす物的証拠が纒向には無い

473琪瑛教祭酒2022/11/10(木) 21:44:37.86
で、平原が卑弥呼なら台与の墓わ。

474日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:45:39.87
>>461

後漢書によると、倭の北西界は狗邪韓国、極南界が倭奴国。
つまり倭とは倭奴国を都とする対馬海峡の国。
卑弥呼はその国の王。

475日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:46:09.09
>>472
卑弥呼の古墳?
邪馬壹国に無くていいが?

476日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:47:13.50
西暦107年に後漢に朝貢した。日本史上、外国史書に初めて名を残した帥升の時代の漢鏡分布図
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

圧倒的に九州が多いし漢も倭国と認識していたのだろう

477日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:48:40.45
>>474
後漢書によると
狗奴国(漢字が違う
南(東?)

478日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:50:17.24
>>476
卑弥呼の時代ではないな。

479日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:50:48.42
>>464

邪馬台国は、魏志伝倭人だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢している。
後漢書では、倭国の北西界は朝鮮半島南岸の狗邪韓国、極南界は倭奴国となっている。
卑弥呼の前の男王の時代70〜80年を挟んで190年頃とされる卑弥呼の即位までの短い期間に、倭国の領土が100倍以上に拡大して、倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。

480日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:51:00.69
>>477
後で書かれたから東の倭種の国が狗奴国連合になってたんだろうよ
出雲の国譲りとか関係ありそうだが
そうするとヤマトが狗奴国になってしまうがw

481日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:52:39.70
隋書だと筑紫国の東に秦王国という外国人国家が紹介されている

つまり隋の時代でもまだ統一国家は形成されていない

482日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:52:44.52
>>471

時間がかかるというか、
サビ色に塗装した鏡は中国でも日本でも作られたことはないので
どういう代物なのかが不明
平原1号の周溝が埋まった後に埋められた土壙墓がⅠB期なので
築造は200年ころ(ⅠA期の終わりころ)が妥当なのだが
サビ色塗装鏡群はもっとずーっと後世かもしれない

483琪瑛教祭酒2022/11/10(木) 21:53:10.95
だから、1.に倭奴国の説明もされてんでしょ、57年は九州を否定してませんよ、金印がホンモノなら滅んでいるでしょう、捨てられてんだから

484日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:53:21.95
>>468

古墳時代、畿内でも大型の内行花文鏡が多く作られ、三角縁神獣鏡より大事にされて副葬されていた。
伊勢神宮にある神鏡も、平原遺跡と同じ内行花文鏡と考えられている。

485日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:54:05.32
>>479
卑弥呼も含まれる記述もない。

486日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:54:45.92
>>473

與止日女神社の近くにでもあるのではないか?

487日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:56:01.24
>>474

一番南の倭奴国と邪馬臺國は別の国

488日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:56:20.43
倭奴国王印が志賀島から出てしまったしな。
大山祇や綿津見か倭王のことだろう。
大国主と天照も同義だしな。

489日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:57:47.53
>>488
出たけど移動中だったとか?

490日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:58:33.94
>>483

倭が滅んでいたら、卑弥呼はどこの国の女王なのやら。

491日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:58:42.54
>>478
漢の時代に交易があったのが倭国で証拠の漢鏡が多く残っていて、魏は邪馬台国を倭国王と認識していたのだろう

492日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:59:58.82
>>485

卑弥呼の称号は倭王。
邪馬台国の女王ではない。
邪馬台国は都があるところに過ぎない。
東京都知事と日本国の代表を混同してはいけない。

493日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:00:29.25
>>491
>漢の時代に交易があったのが倭国で証拠の漢鏡が多く残っていて

だから、「阿波」。   @阿波

494日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:01:04.70
>>491
卑弥呼を倭国王と認識
邪馬壹国も倭国の一部と思う。

495日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:01:06.00
>>489

巨石の下にあったというから、支石墓の副葬品だったのだろう。
倭王の墓だな。

496日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:02:55.12
>>494

そして倭国の王都は博多湾沿岸というのが中国の理解。
数多くいた倭人の首長の中で、博多湾沿岸の代表を倭王に冊封した。
その証が金印。

497日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:07:03.21
>>479

倭国の領土が100倍以上に拡大して、倭が大和に東遷でもしたのではなくて、
後漢末に女王卑弥呼が共立されたのが後漢書の倭国
後漢初(1世紀)に倭奴国はその倭国の一番南にあった国

498日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:08:38.97
>>492
邪馬壹国は、倭国の都でもない。女王の所の都である。
卑弥呼は邪馬壹国も含む国々の王でもある。

499日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:09:04.64
>>497

ということは倭国は倭奴国から北であり、本州はまだ倭国ではない。
魏志倭人伝では本州は倭種。

500日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:09:52.37
>>498

邪馬台国は、倭王卑弥呼がみやことするところ。

501日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:09:59.32
【八咫鏡】

平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座である。
平原遺跡の超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないため、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。

内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。

石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、宗像大社辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これを含めた八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都平原に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。

502琪瑛教祭酒2022/11/10(木) 22:11:34.21
原始道教と言える、太平、五斗米は四川神獣鏡なんだよ。広漢西蜀、
卑弥呼は自前の鏡で三角では無いと思うが、神獣鏡なんですよ。で、埴輪にもあるからぶら下げる位の大きさが巫女にはいいんでないの?
九州の卑弥呼は鏡がデカすぎてカッコ悪いわね。

503日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:12:02.46
>>499
476の図より
卑弥呼時代
近畿一帯ですね。

504日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:16:42.10
>>500
倭国の都ではないんだな

505日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:20:34.45
>>504

卑弥呼が倭王なのだから、卑弥呼が都とするところが倭国の王都。

506日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:25:13.84
>>503
卑弥呼が魏志倭人伝に登場した時は魏の時代なので漢鏡は時代遅れ

507琪瑛教祭酒2022/11/10(木) 22:27:26.37
因みに鏡職人は石孤狸。
卑弥呼を補助する瑞祥(瑞獣)。

508日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:27:29.53
>>505
いいえ、女王国の都とは書いていない。
都となる所ですな

509日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:32:41.68
なので可7万戸
見積りですな。

510日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:34:38.36
>>508
むりやり未来形にするわけ?
それで東遷説?

511日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:36:01.64
>>510
無理やりでもない
東遷でもない

512日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:44:20.63
魏志倭人伝には東遷の記述はない。

513日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:46:17.39
帯方郡から女王国に至るには、万二千余里である

畿内には届きませんな

514日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:46:26.05
>>512
当然、邪馬壹国は近畿一帯
卑弥呼が九州にいる。

515日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:49:35.48
>>513
卑弥呼がいる九州も女王国。
近畿一帯の邪馬壹国も女王国
不彌国から水行30日だから
邪馬壹国は万二千里を超える。

516日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:52:53.00
卑弥呼が居るのになんで30国が朝貢してるんだよ?
卑弥呼は倭王だぞ

517日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:54:58.81
>>516
ひとりごと?

518日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:55:32.96
九州と近畿はあんま関係ねえな

519日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:55:57.97
>>517
聞き流して

520日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:58:03.12
九州と近畿は関係あるな
鉄みれば丹後も多い。

521日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:58:06.98
>>515
何日水行しようが「郡より女王国に至るは、万二千余里なり。」

522日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:58:38.86
>>521
邪馬壹国ではないだな。

523日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:59:53.40
>>521
それはダメだ
まだ南と東と間違えた方がまし

524日本@名無史さん2022/11/10(木) 23:01:00.29
>>520
どう見ても東との関係の方が強い

525日本@名無史さん2022/11/10(木) 23:06:11.10
>>524
丹後も近畿
467の鏡の出土畿内を含む近畿一帯でもある。
又、鉄同様に
量についてどこの国が多いとかの記述もない

526日本@名無史さん2022/11/10(木) 23:10:49.15
https://imgur.io/nj3Ym6s?r
476だったな

527日本@名無史さん2022/11/10(木) 23:13:44.59
https://imgur.io/UKtbTwc?r

データ古いのでは?

528日本@名無史さん2022/11/10(木) 23:15:54.49
面白い物を見つけた、これって前方後円墳のミニチュアだと思うのだけど、後円部は亀のイメージだったのだろうね。
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

529日本@名無史さん2022/11/10(木) 23:18:30.90
>>525
そこからわかる事はズバリ鏡は人気が無い

530日本@名無史さん2022/11/10(木) 23:23:42.04
鉄は朝鮮だし本州日本海側から入って来てるよ
それを近畿で加工して関東まで伝わったんだろう

531日本@名無史さん2022/11/10(木) 23:24:56.32
>>499

>>474の民族意識のように倭国が対馬海峡の国だと
朝鮮半島南部が邪馬台国になってしまう
後漢書が書かれた時代は倭の五王が宋と交流した時代なので
倭国の地理情報がもっと正しく伝わっている
日本列島は北東に広がる列島で
倭人の風習である卜骨は北部九州沿岸からは一つも出ていない

532日本@名無史さん2022/11/10(木) 23:26:57.74
青銅器も直で入ってきてると思うけどね

533日本@名無史さん2022/11/10(木) 23:33:23.15
畿内が平原遺跡から始まる国産内行花文鏡を至高とする伝統を取り入れて、前方後円墳にさかんに副葬している。
その上、皇位の象徴とされる神宝までもが平原遺跡の鏡と同型と思われるのだからね。
平原遺跡の女王が倭国女王、それも倭国が漢と交流できなくなってからしばらくしてからの倭国女王。
卑弥呼でないなら誰だ?
壹與か?

534日本@名無史さん2022/11/10(木) 23:35:59.45
平原1号の大型鏡はサビ色塗装鏡と一緒に割られて棺の外に捨てられていた鏡

535日本@名無史さん2022/11/10(木) 23:40:49.07
>>533
それ根拠無いから
もしかすると皇室のも伊勢神宮のも三角縁神獣鏡かもしれないよ

536日本@名無史さん2022/11/10(木) 23:43:52.45
>>533
伊都国女王だろうな

537日本@名無史さん2022/11/10(木) 23:48:14.28
伊勢神宮内宮の八咫鏡は鏡の袋を交換した人の目撃証言によると
20cm位の白銅鏡で唐草模様があり真ん中に紐を通す穴があるとの事。
つまり、八咫鏡は内行花文鏡ではない別の種類の鏡である。

538日本@名無史さん2022/11/10(木) 23:49:33.60
他に無いってのは人気が無いって事だし
八咫鏡は8kgもあって落として足に当たると痛いし

539日本@名無史さん2022/11/10(木) 23:58:36.87
大きいのが良いなら大きさ競うだろ

540日本@名無史さん2022/11/11(金) 00:16:28.59
そもそも、八咫鏡の形容が書かれた鎌倉末期の度会氏による神道五部書は
外宮の祭神である豊受大神を天照大神以上の存在として格上げすることを目的として書かれている

541日本@名無史さん2022/11/11(金) 00:37:33.30
「男子は大小となく皆黥面文身す-三国志がみた倭人たち」 

弥生後期中葉~古墳前期の鯨面絵画(2~4世紀)土器分布図
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

邪馬台国と物部 黥面の土器は東海と吉備・安芸に集中的に分布
『魏志倭人伝の考古学』佐原真から。
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

542日本@名無史さん2022/11/11(金) 00:46:25.41
物部は関係ない

543日本@名無史さん2022/11/11(金) 01:11:26.51
>宗像地域と出雲、丹後半島までの日本海沿岸地域だけ、これが出雲文化圏なんだろな。
>中国と同じ6穴の土笛とうけん、はこの地域にしかない。

弥生時代の土笛は、(陶?,土員とうけん)とも呼ばれる焼物の笛で、起源は中国。
河姆渡文化晩期(かぼとぶんかばんき・約6500年前)の遺跡などで出現しています。

西日本で土笛が出土した遺跡の分布図
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
https://www.city.munakata.lg.jp/w018/030/020/020/350/201501270037.html

544日本@名無史さん2022/11/11(金) 01:21:13.15
シバの女王の卑弥呼鬼道、恍惚すぎます!!

545日本@名無史さん2022/11/11(金) 01:28:55.44
鬼道は五斗米道じゃ無いかと言われているけど、もしかしたら卑弥呼は渡来人なのかもしれない

546日本@名無史さん2022/11/11(金) 06:16:16.13
卑弥呼は渡来人じゃなく渡来人の血筋を持った媛
背が高くて手足が長く鷲鼻
芸能人で例えると渡辺典子と似ている
占い師と言うより戦争が強くて商売上手
晩年は病気にかかり自慢の美貌が急激に老化
部下にすべての権力を握られる
北九州人
天照大神=初代八女津媛
居城=吉野ヶ里遺跡→日田城

547日本@名無史さん2022/11/11(金) 06:33:26.57
倭国大乱で初陣、
女性なのに首を10人ほど取る
卑弥呼さん
https://twitter.com/Gingercat_Syu/status/1256757766326083585/photo/1

吉野ヶ里城を作って北九州を統一
した頃の卑弥呼さん
https://kijitora-chan.com/archives/6844
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)

548日本@名無史さん2022/11/11(金) 06:45:14.89
>>540
その度会氏は忌部の末裔。
つまり、伊勢神宮は「阿波」の大神を祀っている。   @阿波

549日本@名無史さん2022/11/11(金) 06:47:02.33
>>547吉野ヶ里は卑弥呼より前

550日本@名無史さん2022/11/11(金) 06:50:52.44
>>549
畿内も九州も、消滅遺跡しか提示できないトンデモ説。   @阿波

551琪瑛教祭酒2022/11/11(金) 06:53:34.22
卑弥呼と倭国乱とは時代がズレるだろ、卑弥呼は3世紀の女性だよ、いつまで倭国乱と卑弥呼を繋げるんだよ。
そんな話をして誰がマトモに聴くんだよ。
卑弥呼は鬼道、鬼道=五斗米道。これ以外にないでしょう、これで全て繋がって行くだろ、違うなら行き詰まるの。

552日本@名無史さん2022/11/11(金) 06:54:39.96
むしろ伊都で卑弥呼が共立されて、権力集中により吉野ヶ里が解体されたのかなと。

553琪瑛教祭酒2022/11/11(金) 06:57:12.40
箕子朝鮮ならず張氏倭国だよ。そりゃあ認めないわな。俺は言挙げしないから。

554日本@名無史さん2022/11/11(金) 06:58:01.62
>>552
畿内も九州も、王都遺跡を提示できないトンデモ説。   @阿波

555日本@名無史さん2022/11/11(金) 06:58:19.06
>>551

行き詰まっているのはあなた。
時代はすでに神道の時代。
記紀に照らせば崇神天皇が宮中で八咫の鏡でうなされています。
半世紀後くらいに九州では神夏磯姫が榊に八咫の鏡をかけて祭りを行なっています。
おそらく平原女王卑弥呼も三種の神器を榊にかけて祭りごとをしていたのでしょう。

556日本@名無史さん2022/11/11(金) 07:03:39.64
>>555
九州は、古代も現代も皇室と縁がない、蚊帳の外。   @阿波

557琪瑛教祭酒2022/11/11(金) 07:06:53.84
神器の言葉がいつからそう呼ばれたのか?知らんが神器もまた道教の言葉、中華では皇帝の証は礼器だよ。
三種の神器はあくまで道教で使われる物。卑弥呼は剣と鏡と印璽。
で、その後の列島でも玉璽を使用してるみたいだね。

558琪瑛教祭酒2022/11/11(金) 07:10:27.99
また、まったく行き詰まる処か、あんたらの話を聴いていると確信に変わってしまって怖いわ。

559日本@名無史さん2022/11/11(金) 07:24:41.14
>>546
いや、頭蓋骨を変形させた醜い顔だったかもしれないよ
熊本のトンカラリンとかの例

560琪瑛教祭酒2022/11/11(金) 07:30:44.11
もう少し正確性ある話から説明して解説しないと、いつまでも個人的な勝手な解釈から話を進めるから全然辻褄が合わず不自然なんだよ。
箸墓が魏尺卑弥呼の墓。そしてそれは道教の指導者と言える墓。台与は消えた霊山、岱輿。卑奴母離は雛守。牛利は孤狸。神獣鏡は広漢神獣鏡。勾玉は3世紀に万物を生み出す形に変わる。
宗女台与の墓が西殿。西殿=西母。道教の集団ですよ、物氏はおそらく万物からの物、祭酒か大祭酒の大幹部。

561日本@名無史さん2022/11/11(金) 07:39:47.79
>>560
御託を並べるだけで、王都遺跡を提示できないトンデモ説。   @阿波

562日本@名無史さん2022/11/11(金) 07:43:13.16
トンデモ説同士のライバル争い

563日本@名無史さん2022/11/11(金) 07:46:55.61
>>560

そもそも大和そのものが魏と交流していなかった。
魏から倭国として認識されず、倭種として扱われていた。

564日本@名無史さん2022/11/11(金) 08:05:50.27
と言うトンデモ

565日本@名無史さん2022/11/11(金) 08:14:30.61
>>559
安心しろ
北九州と熊本では同じ国かと
思うぐらい大昔から文化圏が違うから

566日本@名無史さん2022/11/11(金) 08:18:05.57
>>561
イノシシが暴れてるのか?ど田舎やのぉw

567日本@名無史さん2022/11/11(金) 08:24:56.50
釜山、対馬、福岡、佐賀、山口、大分
広島、愛媛が似ているのは
女王国の名残でしょ
コレ

568日本@名無史さん2022/11/11(金) 08:47:41.96
>>567
うなアホな

569日本@名無史さん2022/11/11(金) 10:41:52.68
>>556

>>556
宇佐神宮の大宮司宇佐公仲は安徳天皇の従兄弟であるが、安徳天皇本人かもしれない
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

570日本@名無史さん2022/11/11(金) 11:02:00.92
卑弥呼の鬼道は、神降ろし
今で言うイタコ芸w

五斗米道とは、だいぶ違う

どちらかと言うと
死亡年が同じor近い司馬懿の奥さん
張春華に当てはめたくなるw
(調べてみたけど、かすりもしないが) 

ちなみに、難升(斗)米は
中華の故事「升米恩 斗米仇」から来てるんだろうw
結局、倭国は恩すら難しいw と

和名は「ヌシミ(メイ)」=「主命」

アガタヌシ(withクニ)レベルの官名
俺の答えこんなところですw

571日本@名無史さん2022/11/11(金) 11:06:42.78
大国主は半島にも出張ってたらしいからね

都市牛利は トシグリ = 年神 かもねw

卑弥呼同様に、この年神様も1人じゃないのかもw
まさに官名

572日本@名無史さん2022/11/11(金) 11:08:23.25
北九州のシャーマンと
大和の巫女と違うんじゃない
五馬媛とか美人で残っている

573日本@名無史さん2022/11/11(金) 11:10:28.43
>>567
少しはあるんじゃね

574日本@名無史さん2022/11/11(金) 11:30:11.88
3世紀以降の倭国

①半島南部を含み北部九州を主体とした女王国連合30国
②山陰地方に漂着した半島系弥生人の国々
③若狭湾に漂着し大阪方面、東海方面へと開拓を進めていた国々

②+③で70国

大きく分けてこの3ブロックが存在していた
民間交易は盛んであったが馬もいない時代だったので山を挟んだ地域同士は疎遠だった
隋の時代には①と②の間に秦王国という外国人国家が存在していた

①は中国との関係を重んじ、②と③は独自路線で統一国家を目指していた
中国の史書から、①を含め日本統一に至ったのは6世紀頃と推定される

575日本@名無史さん2022/11/11(金) 11:39:39.43
>>574
北陸も近畿も縄文時代から人が住んでるのになんで渡来人なんだよ?
神明造は南方の影響を受けてるけど古墳や勾玉管玉は日本独自

576日本@名無史さん2022/11/11(金) 11:40:51.36
>>574
苦し紛れのこじつけ。

単に「倭人(阿波勢力)」が進出してだけのこと。   @阿波

577日本@名無史さん2022/11/11(金) 11:42:19.57
>>575
>古墳や勾玉管玉は日本独自

「阿波」の専売特許だがな。   @阿波

578日本@名無史さん2022/11/11(金) 11:43:18.38
>>574阿波には何もない

579日本@名無史さん2022/11/11(金) 11:43:39.11
半島南部から北部九州に盛行したのは弥生中期の甕棺墓
2世紀くらいまでにど没落した

580日本@名無史さん2022/11/11(金) 11:46:37.08
伊勢神宮や出雲大社を建てたのは南方系の移住者なのか?
もうわけわかんねえ

581日本@名無史さん2022/11/11(金) 11:48:48.91
>>567

女王は瀬戸内海は感知しなかったろう。
伊予の大山祇神社は志賀島の綿津見と同体であるから、卑弥呼よりしばらく前の安曇の倭王かと。

582日本@名無史さん2022/11/11(金) 11:54:38.73
日本人は、遺伝学的にはかなりの混血

583日本@名無史さん2022/11/11(金) 11:55:56.89
>>579

それに代わって倭国大乱の後に平原遺跡の木棺墓が登場した。
卑弥呼による新時代が九州北部に登場した。

584日本@名無史さん2022/11/11(金) 11:56:03.92
>>567
単に「倭人(阿波勢力)」が進出した名残だよ。  無駄な妄想。  わははははは   @阿波

585日本@名無史さん2022/11/11(金) 11:56:12.75
>>579
甕棺墓は対馬から出ないんだよね
あの場所にありながら影響を受けないのは別の文化圏なんだろう

586日本@名無史さん2022/11/11(金) 11:58:17.27
渡来人とか言っている愚か者は日本人ではありません。バカチョンです。

587日本@名無史さん2022/11/11(金) 12:01:12.70
>>583
棺有槨無の時代だよな

588日本@名無史さん2022/11/11(金) 12:05:48.06
対馬~宗像~北九州は箱式石棺

589日本@名無史さん2022/11/11(金) 12:09:52.91
墓の形式は地域任せ
狗奴国は女王に属さず存在出来た
つまり墓制や宗教は自由な時代だった

ちなみに前方後円墳は東日本から伝わって来た前方後方墳の後継

590日本@名無史さん2022/11/11(金) 12:25:37.65
前方後円墳の原形は方形貼石墓。箸墓古墳にも葺石があります。

591日本@名無史さん2022/11/11(金) 12:32:41.29
板石を組み合わせた石棺はアジアの広い地域
成人用甕棺は地域、時代は限られている

592日本@名無史さん2022/11/11(金) 12:36:02.47
>>589
俺も前方後方墳の後継が前方後円墳だと思う
そうであれ関東から近畿に流れてきて前方後円墳になって逆になった
別にどちらかが命令したんじゃなく俺もあれが欲しいって感じだと思うけどね

593日本@名無史さん2022/11/11(金) 12:41:41.66
>>592
前方後方墳は東から次第に大型化してきて奈良で最大級となる
その後奈良から西に前方後円墳が増え始め、やがて半島南部にまで到達してる

594日本@名無史さん2022/11/11(金) 12:44:06.87
>>593
関東にも前方後円墳はたくさんあるでしょ

595日本@名無史さん2022/11/11(金) 12:45:26.32
古墳時代が奈良から始まったなどと刷り込みをやってるが
それはまさに霊感商法のアレと同類だ
考古学者が壺売りだと罵られるのも当然だ

596日本@名無史さん2022/11/11(金) 12:45:40.52
瀬田に陸橋前面が開いた2世紀後半の円形周溝墓があるから
前方後方墳の後方部が円形になったということはない

597日本@名無史さん2022/11/11(金) 12:49:58.97
>>596
一例で無いと言い切る理由は?

598日本@名無史さん2022/11/11(金) 12:53:02.06
前方後方型と前方後円型の中間が無い

599日本@名無史さん2022/11/11(金) 12:53:33.42
>>586
悲しいかなお前の先祖も渡来人だよ

600日本@名無史さん2022/11/11(金) 12:54:58.06
円形部がでかいのがあるから何とも言えないけど
前方後方墳の影響を受けてないとは思えないけどな

601日本@名無史さん2022/11/11(金) 12:58:10.78
>>599帰化人

602日本@名無史さん2022/11/11(金) 13:02:09.04
前方後方墳も前方後円墳も前方部を祭祀用に使ってたのは同じでしょう
そうであればそれ良いなあって感じで取り入れたんじゃないか?

603日本@名無史さん2022/11/11(金) 13:04:59.51
>>601
帰化申請したのか

604日本@名無史さん2022/11/11(金) 13:07:18.97
根拠もなくなんでも帰化人ておかしいだろ
伊勢神宮も出雲大社も南方系の帰化人と言えよ

605日本@名無史さん2022/11/11(金) 13:08:33.61
>>603渡来人は捏造術語

606日本@名無史さん2022/11/11(金) 13:08:40.29
>>602
となると墳墓の形状に関係なく、前方部を最初に付けた古墳が起源
誰かの思いつきで始めたものが広まっただけかもね

607日本@名無史さん2022/11/11(金) 13:09:16.12
渡来人・帰化人と言っているアホは日本人ではありません。バカチョンです。

608日本@名無史さん2022/11/11(金) 13:09:27.25
渡来人も帰化人も日本人も大して変わらないんだから気にするなよ

609日本@名無史さん2022/11/11(金) 13:11:13.13

610日本@名無史さん2022/11/11(金) 13:12:08.50
日本人をアホの高麗棒子と一緒にされては迷惑です。

611日本@名無史さん2022/11/11(金) 13:15:23.08
2世紀に楯築墳丘墓という円形に2本突出がついた大型墳丘墓があって
2世紀後半に陸橋が開いた円形周溝墓があり、
3世紀前半に陸橋が切り離されて周濠に囲まれた壺形の島の前方後円墳が造られる
前方後円墳出現期の庄内式土器は畿内第Ⅴ様式が吉備の土器制作技術を取り入れた土師器

612日本@名無史さん2022/11/11(金) 13:26:21.97
ヤマト王権は渡来人王権

613日本@名無史さん2022/11/11(金) 13:30:35.50
>>612帰化人を明確に帰化人と認識して姓氏別けしてるから違う

614日本@名無史さん2022/11/11(金) 13:41:36.02
>>613
「ヤマト王権は帰化人政権」でも構わんがな

615日本@名無史さん2022/11/11(金) 13:44:08.25

616日本@名無史さん2022/11/11(金) 13:49:19.44
>>614だから帰化人認定しているのは百済王氏などはっきりしていて自身や豪族は日本土着として扱っている

617日本@名無史さん2022/11/11(金) 13:49:53.68
渡辺典子似の卑弥呼が倭国大乱を収めた
  ↓
彼女はシャーマンというより女上杉謙信だった
  ↓
女王国を作る(韓国南、対馬、福岡、大分、佐賀、熊本北部、山口西部)
  ↓
首都は日田
  ↓
女王国と同盟国は出雲、京都、越という日本海地域
  ↓
卑弥呼老化、実権を弟に握られ祭祀王となる
鉄でボロ儲け、日本で一番豊かな経済圏へ
  ↓
10年ほどたつと熊襲が勢いが増す
  ↓
卑弥呼はボケ老人になって外に出せなくなった
  ↓
出雲、越が新興国家大和と同盟、
原因は卑弥呼がボケ老人になったから
弟じゃ無理と悟られる
  ↓
卑弥呼死す、熊襲と女王国戦闘、ボロ負け
  ↓
トヨ誕生、宇佐にて居城、熊襲の属国へ
女王国、かっての勢いなし
  ↓
トヨ、大和政権と併合を願うが田油津媛などが反乱
  ↓
九州平定で大和政権にフルぼっこ
  ↓
卑弥呼、トヨ伊勢神宮で祭られる

618日本@名無史さん2022/11/11(金) 13:59:50.00
>>611
>庄内式土器は畿内第Ⅴ様式が吉備の土器制作技術を取り入れた土師器

庄内式土器は、「阿波」の「東阿波型土器」を取り入れた土師器。   @阿波

619日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:03:11.60
しょうもない式土人なら阿波

620日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:13:55.27
【姓氏の語源】渡来人帰化人は遺民だった【大和政権と姓】


621日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:20:41.23
>>612
8世紀までに日本に渡ってきた人はみな日本人
という括りでいいと思うぞ

622日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:20:43.39
wiki
渡来人(とらいじん)とは、広義には、大陸から日本列島に渡って来た人々を意味する。歴史用語としては、3世紀から7世紀頃に大陸(中国、朝鮮半島など)から日本に移住した人々(移民)を指すことが多い。人類学では、弥生時代以降にユーラシア大陸から渡来した人々(渡来系弥生人など)の総称として用いられることが多い。
現代日本人の遺伝的構成要素の多くは弥生時代以降の渡来集団に由来する。元来、日本列島には縄文人が居住していたが、弥生時代以降の渡来集団と徐々に同化していったとされる。(現在の日本政府ではアイヌのみを日本の先住民族としている。)

3世紀から7世紀頃なら渡来人で2世紀までなら渡来人ではない?まったく意味不明だわ。

623日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:25:07.58
>>622
アイヌも違うみたいだし物凄く政治的

624日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:25:53.90
>>622
>2世紀までなら渡来人ではない?まったく意味不明だわ。

つまり、
縄文文化を享受する人が縄文人。 その縄文人が、弥生文化を取り入れた時点で、弥生人となる。
縄文人も弥生人も、人種は同じってこと。   @阿波

625日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:26:12.55
倭人が3世紀に半島から列島に移れば「渡来人」なのか?
扶余が2世紀に半島から列島に移れば渡来人ではないのか?
この意味不明な「渡来人」と言う言葉を統一しないと何が何だかさっぱりわからん。
縄文人だって渡って来たには違いないんだし。

626日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:26:54.50
>人種は同じってこと。
それは100%違うので却下。

627日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:27:14.62
>>625
つまり、
縄文文化を享受する人が縄文人。 その縄文人が、弥生文化を取り入れた時点で、弥生人となる。
縄文人も弥生人も、人種は同じってこと。   @阿波

628日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:28:13.04
>>621古代日本では明確に分けている。先祖が記紀の神話の神々に由来しない氏族は帰化人

629日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:28:44.87
>>626
縄文人と弥生人の差など、分からないってこと。   @阿波

630日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:32:11.43
アイヌ民族は80%ハプロDグループに属する。縄文系の濃い民族と言える。
縄文人と弥生人の差など、「今は」分からないだけであって
いわゆる弥生人が渡来する前の混血のない縄文人と弥生人の区別は当時、容易に可能であったと推測できる。

631日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:32:57.73
俺とか阿波みたいなど素人は渡来人とか何故分けてるんだろうと
素朴な疑問として気づくのよ
権威に毒されるとその辺ダメなのかもな

632日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:33:56.72
沖縄の人は顔が濃い。それはどうして?

その理由は、沖縄は縄文人の遺伝子が強い人たちが多く居るからだそうです。
https://lapice.biz/guide/okinawa/30218/

633日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:36:46.17
>>631
まぁ、そういうことだ。  だから未だに根拠のない畿内説とか九州説とかに、洗脳されている。   @阿波

634日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:38:00.94
>>631
阿波爺は渡来人どころか縄文人と弥生人の区別もつかないw

635日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:39:55.52
>>632
>沖縄の人は顔が濃い。

顔の濃い人が多いだけのこと。   @阿波

636日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:40:02.98
縄文系の人は髭や胸毛やすね毛が濃いそうだ

637日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:41:12.02
>>635
それが民族的な偏りですよ。アホですか?

638日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:42:00.28
>>636
>縄文系の人は髭や胸毛やすね毛が濃いそうだ

濃い人も居りゃ、薄い人も居たことだろう。  わははははは   @阿波

639日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:42:25.84
阿波は海賊の子孫

640日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:45:34.95
>>637
>それが民族的な偏りですよ。

その通り!  
顔の濃い遺伝子であって、顔が濃いから即縄文人とかアホですか?  わははははは    @阿波

641日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:46:52.64
阿波人は頭の中が薄い

642日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:48:07.66
縄文文化を享受する人が縄文人。 その縄文人が、弥生文化を取り入れた時点で、弥生人となる。

縄文人も弥生人も、人種は同じってこと。   @阿波

643日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:48:20.13
>>640
すげえ的確。
でも、中国朝鮮以外にも、渡来人って居たんでしょう?おそらく・・・

644日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:48:22.69
Q:なんで卑弥呼は渡辺典子なんですか?
A:福岡県や大分県に多い顔だからです

Q:スサノオと天照大神は仲が悪いですよね
なんで同盟国なんですか?
A:卑弥呼さんとは兄弟のように仲がよいです
仲が悪かったのは岡山、兵庫、滋賀の人たちです

Q:天照大神は卑弥呼さんなのですか?
少し違うと思いますが
A:天照大御神です、間違いありません
大和政権に都合のよい解釈になってます

Q:邪馬台国の場所はどこですか
A:吉野ヶ里遺跡ですが日田市です

645日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:51:55.17
チビ、デブ、ハゲ、ブサメンは渡来人。
アホ、バカ、間抜け、愚か者は帰化人。

646日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:54:37.26
>>644
日田なら山崎ハコだろ

647日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:56:40.15
>>645
どっちにも当てはる>>1は?

648日本@名無史さん2022/11/11(金) 14:57:17.81
>>640
誰がそれが即と言ったのですか?傾向があると言っただけ。
欧州にも濃い人いっぱいいますよ。
染色体のハプログループも理解できない原始人とは話ができませんので
その程度は理解してから会話に入って下さい。

649日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:02:29.26
>>621
記紀を作った側は日本人ってことかw

650日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:02:36.46
>>648
>傾向があると言っただけ。

だから、縄文人と弥生人の差など、分からないってこと。   @阿波

651日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:07:16.57
先祖が渡来してきた事を天孫降臨と言う話で美化したのが記紀

652日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:11:04.28
>>650
どの時点でだよ。弥生人の列島流入の結果、人骨の形が変わってるんですけど。
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚
https://www.yoshinogari.jp/ym/episode03/body_feat.html

653日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:11:44.62
奇っ怪な渡来人と帰化人
なぜか中国語がしゃべれない。なぜか漢字が書けない。

654日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:16:18.99
>>652
>弥生人の列島流入の結果、人骨の形が変わってるんですけど。

たまたま、そのサンプルだけの話。  わははははは   @阿波

655日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:18:27.44
>>653
もともとツングースク系の遊牧民だから

656日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:19:59.50
>>654
そんな奇想天外バカだから阿波説が珍説扱いの現状なんだよw
5ちゃんでバカアピールしてる事を阿波忌部の神々と善良な徳島県民に土下座で詫びろ。

657日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:22:01.20
>>651なら先祖が居た故地の領有権を主張してないのはおかしい

658日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:25:02.57
>>652
渡来人は断続的に入ってきてるのよ
でも縄文時代と弥生時代は明確に分けてる
その転換期にいきなり顔が変わったと思う?

659日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:25:15.41
>>656
>弥生人の列島流入の結果、人骨の形が変わってるんですけど。

たまたま、そのサンプルだけの話。  わははははは   @阿波

660日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:26:38.21
>>657
故郷を追われたボートピープルだったのだろう

661日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:31:13.75
>>658
池沼かよ。誰が突然変わったって言った?
混血なんだから徐々に変わったに決まってる。
誰も言ってない事を論破するのはなぜですか?

>縄文時代と弥生時代は明確に分けてる
ほう、ある日突然狩猟をやめて稲作を一気に開始したんだな。
それは西暦何年何月何日だ。池沼www

662日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:32:53.28
渡来人、四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ

邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

近畿と四国に多いね

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC18CCA0Y1A610C2000000/

663日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:34:21.00
>>661
>混血なんだから

これが間違いの原因。   @阿波

664日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:35:12.14
>>660任那を領有してたのにか?

665日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:36:07.63
>>661
だから長い年月をかけて徐々に変わったんだよ
これは他の時代も同じ
違うと言うなら伊勢神宮も出雲大社も南方系の渡来人と主張しろ

666日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:36:13.38
>>663
根拠は?なぜ染色体という科学的証拠をガン無視できるの?バカなの?

667日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:36:43.04
>>662
>近畿と四国に多いね

それはまさに倭国(阿波)による、白鳳時代の朝鮮人保護によるもの。   @阿波

668日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:37:47.59
>>665
>違うと言うなら伊勢神宮も出雲大社も南方系の渡来人と主張しろ
何の脈略だよ。池沼。

>縄文時代と弥生時代は明確に分けてる
ほう、ある日突然狩猟をやめて稲作を一気に開始したんだな。
それは西暦何年何月何日だ。池沼www

669日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:38:10.54
>>666
>なぜ染色体という科学的証拠

たまたま、そのサンプルだけの話。  わははははは   @阿波

670日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:38:47.40
>>668
じゃあ何の根拠があって渡来人なんて言ってるんだ?

671伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 2022/11/11(金) 15:40:23.38
>>667
古代半島人は、朝鮮人では無い。

672日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:43:06.48
>>667
乗っ取られたのじゃ無いのか

673日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:47:54.37
>>670
俺は渡来人と言う言葉に疑問を持っている。>>625

あえて答えると
縄文人骨の顔立ちや体形は一定しており、あまり大きな時期差や地域差は認められない。
これは膨大な長期にわたって異民族の流入がなく単一人種化したものだ。
それに対して弥生人骨は割合と多様であり、地域差や時期差が大きい。縄文人そのもののような弥生人や縄文人に似た弥生人(縄文系弥生人)、大陸側(朝鮮半島と中国吉林省近く)にいた人々と身体的特徴が似ている弥生人(渡来系弥生人)、縄文系と渡来系が混合したような弥生人(混血系弥生人)がいた。
これは縄文人に対する異民族の渡来による濃度の差によるものだ。わかったか。池沼。

674日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:48:45.15
>>672
>乗っ取られたのじゃ無いのか

遷都前の畿内に関しては、そうとも言える。   @阿波

675日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:49:05.87
>>670
>縄文時代と弥生時代は明確に分けてる
ほう、ある日突然狩猟をやめて稲作を一気に開始したんだな。
それは西暦何年何月何日だ。池沼www

676日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:52:28.38
縄文文化を享受する人が縄文人。 その縄文人が、弥生文化を取り入れた時点で、弥生人となる。   @阿波

677日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:52:32.06
>>673
ある時期弥生人が大量に移民してきたのはあまりに不自然
狩猟民族と農耕民族に身体的な違いは当然出るだろう

678日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:53:31.58
乗っ取られたのはオオゲツヒメを惨殺された阿波

679日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:54:50.90
棟持柱のある高床式建物は明らかに南方系
伊勢神宮は南方系渡来人が建てたと何故言わない?

680日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:55:12.11
>>673
>これは縄文人に対する異民族の渡来による濃度の差によるものだ。

これが間違いの原因。   @阿波

681日本@名無史さん2022/11/11(金) 15:56:24.82
>>674

> >乗っ取られたのじゃ無いのか
>
> 遷都前の畿内に関しては、そうとも言える。   @阿波

奈良の事でいいのか?

682日本@名無史さん2022/11/11(金) 16:00:50.10
>>677
時期差が大きいってんだよ!
釣り?知的障害?

683日本@名無史さん2022/11/11(金) 16:02:23.73
>>682
おまえにもこれ
棟持柱のある高床式建物は明らかに南方系
伊勢神宮は南方系渡来人が建てたと何故言わない?

684日本@名無史さん2022/11/11(金) 16:07:09.98
>>664
朝鮮はモンゴルに滅ぼされるまでずっと戦乱の世みたいだったから難民は多く出たのだろう、かつてのベトナム難民のように。ヤマト王権が要請したのかどうかはわからないが、弓月君は新羅を経て加羅から渡来しているね

685日本@名無史さん2022/11/11(金) 16:13:04.02
>>681
>奈良の事でいいのか?

いや、京阪神だな。   @阿波

686日本@名無史さん2022/11/11(金) 16:17:23.34
>>666
現代人だからだよ。
縄文から弥生の被葬者での統計はないかな?

687日本@名無史さん2022/11/11(金) 16:19:05.20
日本神話の天地開闢で最初に生まれたのは葦の芽
国生み神生み神話で淡路島より先に1番最初に生まれたのはひるこ
ひるこの船は葦船であり磐樟船

縄文時代より前の最終氷期に当時陸地だった瀬戸内海や古大阪平野でサヌカイトの石器を使っていたのはC1a1の人々
淡路島がまだ四国と陸続きで島ですらなかった時代の話
これが日本人の最古層で葦の芽でしょうね

688日本@名無史さん2022/11/11(金) 16:23:35.84
>>686
統計学は知らんが、サンプルが少なすぎじゃないのか?   @阿波

689日本@名無史さん2022/11/11(金) 16:26:25.57
>>688
何故か古墳からの被葬者の姻戚関係は
調べない日本の考古学。
宮内庁管轄以外ならできるのにね。

690日本@名無史さん2022/11/11(金) 16:26:58.98
>>687
>国生み神生み神話で淡路島

淡路島ではなく、粟島だ。 大河四国三郎吉野川に在る日本一の砂洲。   @阿波

691日本@名無史さん2022/11/11(金) 16:28:31.10
>>687
>1番最初に生まれたのはひるこ
>ひるこの船は葦船であり磐樟船

粟島の葦で編んだ船で流したんだろう。   @阿波

692日本@名無史さん2022/11/11(金) 16:31:36.06
>1番最初に生まれたのはひるこ
日本書記では違いますね。

693日本@名無史さん2022/11/11(金) 16:52:08.31
>>662
関西に朝鮮人が増えたのは秀吉の時代とマジレス

694日本@名無史さん2022/11/11(金) 16:59:05.68
>>687
C1a1が先に列島で発生したのにD1a2aの数が圧倒的なのはなぜなんだろう?

695日本@名無史さん2022/11/11(金) 17:03:15.33
>>693
朝鮮戦争の頃(日本敗戦後混乱期)にいっぱい入られたけど?

696日本@名無史さん2022/11/11(金) 17:08:41.00
>>676
北海道礼文島の船泊遺跡(縄文時代後期前葉から中葉(約3,800-3,500 年前))から出土した人骨・船泊5号のY染色体は、ハプログループD1a2a2a(D-CTS220)であった。これにより「ハプログループD1a2a系統は縄文系である」という従来からの仮説が立証された。

697日本@名無史さん2022/11/11(金) 17:11:54.32
科学的にも文献的にもアホバカとしか言えない阿波説はさっさと取り下げてYoutube・ラジオ放送する予算を八倉比売の神格復元に使いなさい。

698日本@名無史さん2022/11/11(金) 17:20:00.17
1万人の渡来人が20年間で2人子供を儲け続けると順調に行けば、17代後の子孫は延べ12億人になる計算です

699日本@名無史さん2022/11/11(金) 17:26:28.12
>>696
統計学は知らんが、サンプルが少なすぎじゃないのか?   @阿波

700日本@名無史さん2022/11/11(金) 17:28:30.95
>>698
何でそんな話するん?
Y染色体は、父系から男子にしか継承しないでしょ?
お前、「池沼くん>>683」だろ?

701日本@名無史さん2022/11/11(金) 17:34:10.79
>>700
ハズレ、君の妄想力には笑える

702日本@名無史さん2022/11/11(金) 17:36:44.93
男は生まれた子供が自分の子供かどうか確証が持てないものだ、女を信じるしか無い

703日本@名無史さん2022/11/11(金) 17:40:46.22
>>701
すまん、頭がおかしいのがここに沢山いると思いたくなくて。

704日本@名無史さん2022/11/11(金) 17:45:38.95
>>703
変な妄想をする自らを疑った方がいいな

705日本@名無史さん2022/11/11(金) 17:58:48.16
百襲姫の話は夜這いの事だろ、夜は大物主だけど昼は小物主で幻滅したのだろう

706日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:00:50.90
>>593

前方後円墳が最大となるのは、奈良ではなく大阪

707日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:02:53.08
>>687
>国生み神生み神話で淡路島

淡路島ではなく、粟島だ。 大河四国三郎吉野川に在る日本一の砂洲。   

オノコロ島は、忌部の郷 吉野川中流域に出来た、日本最大の「粟島」「舞中島」などの砂洲 。
「こをろこをろとかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった」
吉野川の洪水で、川底が「こをろこをろ」とかき回され、砂が積もり重なって砂洲「粟島」「舞中島」などがオノコロ島となった。
淡路島の沼島では、「積り重なって」が説明できない。   @阿波

708日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:12:08.05
>>651

高天原は沖ノ島だと思うので、天孫降臨は国内の移動ですよ。
なんでも渡来と結びつけるのは古代妄想。
記紀神話のスケールは我々が思う以上に小さいのです。

709日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:14:45.21
>採取生活では7万戸は不可能。

7万戸の正否はともかく、
大勢の人が住み暮らした痕跡(弥生時代集落遺跡群)が
真っすぐ東西に80kmをも貫く大河「四国三郎吉野川」流域両岸に
密集して存在するのは、唯一「阿波」だけ。
「阿波」以外にそんな所はどこにも存在しない。   @阿波

710日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:14:55.96
>>661

一気に変わったんだよ。
それからしばらくすると、縄文系と弥生系の混血が始まる。

稲作への転換も、各々の地域で見れば急速な変化だった。
稲作は中途半端ではできない。

711日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:17:50.69
>>707
粟島が吉野川より先に出来てるので矛盾ですね。

712日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:18:36.32
>>708
「高天原」は四国山地一帯。
鮎喰川上流域の神山・穴吹川上流域の木屋平・貞光川上流域の一宇
これら、四国山地一帯を表す。   @阿波

713日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:19:31.38
>>677

多量の移民でなくてもいい。
知識層すなわち支配層だから、少数でも丁寧に葬られて骨が残りやすい。

714日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:20:53.84
>>711
>粟島が吉野川より先に出来てるので

??? 変なのが現れたよ。   @阿波

715日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:21:03.38
>>683

稲作そのものが南方の文化だし、いいんじゃないかな。
倭人は呉の太伯の末裔らしいし。

716日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:22:09.65
日本書紀は権力闘争のトーナメントで勝ち抜いたチャンピオンが自らの正当性を記した書、大化の改新クーデターを正当化する為に藤原不比等らによって編纂された、後に藤原道長に詠まれた歌が「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」クーデターから400年ほどのちの事である

717日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:26:04.67
>>708
「高天原」は四国山地一帯。
鮎喰川上流域の神山・穴吹川上流域の木屋平・貞光川上流域の一宇
これら、四国山地一帯を表す。   @阿波

718日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:27:07.10
天孫族が降り下った最初の開拓地 高千穂(豊葦原中国)が、

鮎喰川下流域・大河四国三郎吉野川流域一帯だったのだろう。   @阿波

719日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:30:44.17
>>708
沖ノ島での出土物はほぼ大陸のものですね

720日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:33:21.20
>>699

知らないなら黙ってろ

721日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:33:25.35
>>719
まぁ、「オノコロ島」だろうが「高天原」だろうが「高千穂」だろうが、

きちんと説明出来るのは、「阿波」だけだから。   @阿波

722日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:34:25.88
>>705
記紀の大和における話はそんなのばかりだ。

723日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:34:28.92
>>716
いや、そうなんだけど話題にしてない周知の事柄を何のために書く?

724琪瑛教祭酒2022/11/11(金) 18:36:00.33
纏向が卑弥呼の道観、臺でいいだろ。首相官邸位在れば充分。女王の都とする所さ。
初めて出会う倭国の女に曹叡は我甚哀汝なんてことは言わないんだよ。
無駄だな。陳寿の鬼道は五斗米道だよ。

725日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:36:14.87
>>719

大陸からの輸入品だけど、扱っていたのは宗像氏族でしょう。

726日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:37:04.93
>>723
日本書紀に書かれている事は少し疑った方がいいのでは無いかと問いかけているのだよ

727日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:37:31.73
>>724

河内とさえ交流できなかった大和が魏と交流できるはずないでしょう。

728日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:38:58.08
>>725
わしの祖父が宗像姓だけど死んじまってるのでもう聞くことができないな

729日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:42:54.75
>>721
>吉野川の洪水で、川底が「こをろこをろ」とかき回され、砂が積もり重なって
>砂洲「粟島」「舞中島」などがオノコロ島となった。

伊予之二名島がまだ生まれてない(吉野川も当然ない)のにオノコロ島ができた?
バカなの?死ぬの?

730日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:43:57.56
淤能碁呂島は博多湾の能古島。
ちゃんと矛も出土している。

731日本@名無史さん2022/11/11(金) 18:50:48.56
>>727
それなw

732日本@名無史さん2022/11/11(金) 19:00:20.75
>>727
九州説は、なんでそんな嘘つくの?
河内と大和は交流が深い
誰でも知ってる

733日本@名無史さん2022/11/11(金) 19:01:12.56
>>729
>伊予之二名島がまだ生まれてない(吉野川も当然ない)

??? 変なのが現れたよ。  バカなの?死ぬの? わははははは   @阿波

734日本@名無史さん2022/11/11(金) 19:22:09.59
四国山地は、変わっていますよね
剣山、大歩危小歩危、石鎚カルスト。
わたしは、山ではないが足摺岬に行きましたが、大変良いところでした。

735日本@名無史さん2022/11/11(金) 19:24:10.08
邪馬台国と関係ないけどな

736日本@名無史さん2022/11/11(金) 19:24:29.38
四国は、海も山も、手つかずの魅力いっぱいですよね。
今後、観光地として大発展するんじゃないでしょうか。

737日本@名無史さん2022/11/11(金) 19:30:14.44
沖ノ島祭祀はヤマト王権による4世紀後半からの祭祀

738日本@名無史さん2022/11/11(金) 19:31:22.86
弥生人にとって、南四国・阿波はまさに「常世の国・パラダイス」
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、黒潮がもたらす豊かな海の恵によって漁労・航海術が発達、
また、温暖多雨による森林資源に恵まれ、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れ、
大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。
さらに、「辰砂」「青玉(角岩チャート)」「蛇紋岩」「青石(緑色結晶片岩)」など希少価値の高い鉱物にも恵まれ、
「阿波」に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、自然の摂理。   @阿波

739日本@名無史さん2022/11/11(金) 19:34:55.92
@阿波は犬神に取りつかれているから、賢見神社にいって憑き物を追い払って貰いなさい

740伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 2022/11/11(金) 19:36:58.04
>>734
吉野川の発生は、四国山地が隆起を始めるより前、
山地の隆起より侵食のスピードが上回り、
大歩危小歩危の渓谷を作った。

でも、阿讃山脈ができた時は隆起の速度より侵食が遅く、
山脈は越えられなかった、

741日本@名無史さん2022/11/11(金) 19:40:01.01
高千穂は天降(あまくだ)った所だから、少なくとも宮崎県高千穂のような高い山地などではなく、
山の麓・平野である。
そして、豊かに稲や稗・粟などが稔るところを指す。   
高天原=四国山地(神山・木屋平村)
高千穂=大河吉野川中流域(美馬市・阿波市一帯)及び鮎喰川下流域    @阿波

742日本@名無史さん2022/11/11(金) 19:40:31.64
YouTubeの邪馬台国動画は
アップロード日検索で最新順に
ほぼ全部目を通してるわ、ここ数年w

阿波説も頑張ってるねw

743日本@名無史さん2022/11/11(金) 19:46:05.23
>>742
意味ないけどな

744日本@名無史さん2022/11/11(金) 19:47:03.07
>>742
>阿波説も頑張ってるねw

他説は妄想の羅列ばかりだから。   @阿波

745日本@名無史さん2022/11/11(金) 19:54:00.75
>>732

残念だし自分でも意外なのだが、纏向遺跡は河内からの土器がなぜか少ない。
キナイコシ君は、旅人は河内まで来たら土器を捨てて大和入りしたのだろうとテキトーなことを言っていたが…

746日本@名無史さん2022/11/11(金) 19:54:20.41
卑弥呼も邪馬台国も特定は不可能なのだそうです


747日本@名無史さん2022/11/11(金) 19:55:23.67
>>737

岩上祭祀だから台風で吹き飛んで痕跡が見つけられないだけ。

748日本@名無史さん2022/11/11(金) 20:00:54.70
>>713
それで顔や体格が縄文人から弥生人に変わるのか?
おまえもこれだな
棟持柱のある高床式建物は明らかに南方系
伊勢神宮は南方系渡来人が建てたと何故言わない?

749日本@名無史さん2022/11/11(金) 20:01:42.92
沖ノ島は、大和政権の祭祀というのは、畿内説の贔屓目にすぎない。
大和も参加したというだけ。
明らかに主催者は九州の宗像大社。
何しろ宗像大社の沖津宮なのだから。
大和も参加した理由はおそらく、筑紫と大和の共通の祖先を祭るためだったろう。
神道の祭りとは本質的に祖先崇拝だからね。
祭られたのはおそらく天照大神。
岩上祭祀とは、天照大神の磐座のこと。
つまり古代人は沖ノ島が高天原だと認識していた。

750日本@名無史さん2022/11/11(金) 20:03:29.93
>>748

俺は南方系については否定しない。
南方系の顔の平たい一族が稲作を持ち込んだのだよ。

751日本@名無史さん2022/11/11(金) 20:04:54.54
>>750
おまえバカなのか?
伊勢神宮は南方系渡来人が建てたと思ってるのか?

752日本@名無史さん2022/11/11(金) 20:12:51.88
沖ノ島は半島から渡ってくるには良い道標
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

753日本@名無史さん2022/11/11(金) 20:17:19.36
>>752

朝鮮半島側からは見えない。
魏志倭人伝にも出てこないだろ?

754日本@名無史さん2022/11/11(金) 20:19:39.00
伊勢神宮は中国語もしゃべれない漢字も書けない渡来人が建てたそうですよ。

755日本@名無史さん2022/11/11(金) 20:21:16.72
>>742無能の働き者

756日本@名無史さん2022/11/11(金) 20:35:58.98
>>753
まずは対馬を目指して対馬を超えたら左手に沖ノ島を確認して航路を取るのだろう、倭人伝当時は無人島だから記す必要も無かったと考える

757日本@名無史さん2022/11/11(金) 20:55:44.53
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

758日本@名無史さん2022/11/11(金) 21:13:46.37
沖ノ島を制すると必然的に制海権を握ることができる。
海の王になれる。
アマを照らす(支配する)者、アマテラス。

759日本@名無史さん2022/11/11(金) 21:16:56.22
>>747,749

祭祀跡を見たこともないど素人の妄想

760日本@名無史さん2022/11/11(金) 21:17:18.77
沖島は本州から来る船の目印になっただけで九州から来る船は関係ありません。

761日本@名無史さん2022/11/11(金) 21:23:38.37
沖ノ島は宗像~沖ノ島~対馬の海上ルート
4世紀前半までは博多湾沿岸~(松浦半島)~壱岐~対馬~半島の海上ルート

762日本@名無史さん2022/11/11(金) 21:23:40.75
>>760
来るってどこに?

763日本@名無史さん2022/11/11(金) 21:35:18.36
海人族と言えば海部氏の系図に卑弥呼らしき人物が書かれているらしいが真偽は如何に? 

764日本@名無史さん2022/11/11(金) 22:24:52.09
>>785
このとき、海を照らして寄り来る神があった。
「私の御魂を、大和の青々ととり囲んでいる山々の、その東の山の上に斎み清めて祭りなさい」と答えた。
これが御諸山の上に鎮座している神(倭大物主大神)である。

765日本@名無史さん2022/11/11(金) 22:51:09.20
天日鷲命は、剣山が本拠だそうですが、となると、ソロモン?
それか、ミカエルが剣山にいるの?
それも考えにくいなあ・・・
ウリエル、ソロモン、剣山では?

766日本@名無史さん2022/11/11(金) 22:56:53.58
違うのか。
忌部神社の天日鷲命は、ソロモンで、剣山に神霊が帰ってしまったということか。

767日本@名無史さん2022/11/11(金) 22:57:49.86
でも、忌部神社だしな・・・忌部勢力の総本山なはずだから・・・

768日本@名無史さん2022/11/11(金) 22:59:15.17
鷲がウリエルで、ミカエルはまた別の鳥名とか?

769日本@名無史さん2022/11/12(土) 00:01:53.57
一番完璧



すごいわ〜〜この人
畿内で決まりだね

770日本@名無史さん2022/11/12(土) 01:12:53.35
ウリエルは、関係無さそうだ。
じゃあ、ミカエルなのかな?
どちらかというと、天日鷲命から受けるイメージは、ミカエルっぽい

771日本@名無史さん2022/11/12(土) 01:14:03.50
しかしなあ・・・
ミカエルと、ソロモンは、関係無さそうだけどな・・・

772日本@名無史さん2022/11/12(土) 01:15:57.02
>>769
ご冥福を

大和と言う地名もまた、あちこちにある

今もw

773日本@名無史さん2022/11/12(土) 01:16:43.28
シバの女王が卑弥呼でしたっけ本当に?

774日本@名無史さん2022/11/12(土) 01:18:01.54
確かそうだったよな・・・

775日本@名無史さん2022/11/12(土) 02:28:50.35
>>622
歴史用語としても弥生時代以降にユーラシア大陸から渡来した人々(渡来系弥生人など)の総称だよね

776日本@名無史さん2022/11/12(土) 05:16:15.37
>>716
自己レスです

藤原氏は日本書紀(720年)の中で自らの始祖天児屋命(託宣の神の居所の意味)を神格化し、
768年に藤原氏の氏神を春日大社に遷して祀っているが天児屋根命の妻として比売神も祀られている。
藤原氏は卑弥呼を比売神として日本書紀に落とし込み藤原氏の先祖と表現したのではないだろうか?
これが記紀で卑弥呼が消された理由だと推測する。

777日本@名無史さん2022/11/12(土) 05:40:44.25
>>776
自己レスです

『日本書紀』には「三女神を宇佐嶋に降り居さしむ、今は海北道中に在り」
とあり三女神は比売大神のことであり藤原氏の先祖を匂わせている

778日本@名無史さん2022/11/12(土) 05:57:37.48
>>777
自己レスです
日本書紀では三女神を生んだのは天照大神と書いているので
藤原氏の先祖は天照大神であると言いたかったのである

779日本@名無史さん2022/11/12(土) 06:58:54.64
そして日本書紀を編纂した藤原不比等の孫は天皇に即位するのである

780日本@名無史さん2022/11/12(土) 07:31:49.98
なんと藤原不比等の孫の称徳天皇は道鏡を寵愛してしまったのですが、道鏡は物部氏の出自だったんですね、
で宇佐の神託が「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」
として物部氏の皇位を否定したのですね

781日本@名無史さん2022/11/12(土) 07:34:24.27
近畿一帯に祭祀場が点在していた。
なので陸1月

782日本@名無史さん2022/11/12(土) 07:42:50.23
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里なので日数は計算しなくていいよ

783日本@名無史さん2022/11/12(土) 08:09:47.97
>>782
逆、日数だけでいい

784日本@名無史さん2022/11/12(土) 08:13:05.50
魏志倭人伝を読んでも
纏向の遺跡を見ても
邪馬台国とは思えない

卑弥呼=天照大神=比売大神
本名:八女津媛

785日本@名無史さん2022/11/12(土) 08:17:40.83
>>784
纏向の遺跡はなにに見えた?

786日本@名無史さん2022/11/12(土) 08:29:39.23
台与は存在しなかったと思うわ
そうなると卑弥呼も怪しい
でも纏向の遺跡は確実に存在しあの規模は王宮だ

787日本@名無史さん2022/11/12(土) 08:32:27.48
>>782

同意

788日本@名無史さん2022/11/12(土) 08:36:42.77
>>782
帯方郡から女王国まで一万二千里(直線距離)なので日数は計算しなくていいよ。   @阿波

789日本@名無史さん2022/11/12(土) 09:24:43.85
八女津媛が天照大神だの八倉比売が天照大神だのもううんざり。

790日本@名無史さん2022/11/12(土) 09:31:01.49
勝手に変えればなんでも出来る

791日本@名無史さん2022/11/12(土) 09:38:14.27
>>790
不自然に思える部分を何故なのか考えても構わんだろ

792日本@名無史さん2022/11/12(土) 09:40:53.45
>>791
だから自然だと思えるように変えちゃマズいのに

793日本@名無史さん2022/11/12(土) 09:47:08.03
>>792
何故距離から日数に変えて何処だか分からなくなってるのか?
意図して分からなくはしない

794日本@名無史さん2022/11/12(土) 09:47:54.57
>>785
日本書紀の王朝すね
魏志倭人伝の邪馬台国じゃなく
別の巨大国家

795日本@名無史さん2022/11/12(土) 09:48:57.48
意図して分からなくしたんじゃなく陳寿が分かってない

796日本@名無史さん2022/11/12(土) 09:51:28.03
>>794
邪馬台国じゃないかどうかは分からないけど王宮だろうな

797日本@名無史さん2022/11/12(土) 10:14:05.58
>>794
古墳築造現場の飯場だ。  わははははは   @阿波

798日本@名無史さん2022/11/12(土) 10:17:49.72
>>785

崇神天皇の宮

799日本@名無史さん2022/11/12(土) 10:19:23.37
>>793

里程と日程は別情報。
つなげて読まなければいい。
九州北部て道程は完結している。

800日本@名無史さん2022/11/12(土) 10:23:04.04
>>799
>九州北部て道程は完結している。

九州北部が「邪馬臺国」? 女王国?   @阿波

801日本@名無史さん2022/11/12(土) 10:38:11.70
四国東部で童貞は完泣きしている

802日本@名無史さん2022/11/12(土) 10:48:16.59
>>799
そうやって理屈抜きに決めつけばっかりしていたから九州説は滅んだ

803日本@名無史さん2022/11/12(土) 11:06:26.33
>>802
理屈が通るのは、「阿波」だけだがな。  わははははは   @阿波

804伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 2022/11/12(土) 11:34:59.61
我田引水で理屈が通るとほざくドあほが同郷かと思うと嘆かわしい。

805日本@名無史さん2022/11/12(土) 11:40:48.43
「考古学は残酷」
考古学の進展と遺物分析の進歩により、今や阿波説一択の時代となってしまった。
縄文時代後期~三世紀に国家形成期の日本列島が地域性を超えた交流圏を形成していた事実を、考古学が証明している。
その交流圏の中心地が存在することも考古学が証明している。 その中心地は、決して畿内や九州ではない。
石器(泥質片岩製の石棒・青色片岩製の柱状片刃石斧)文化圏、蛇紋岩製勾玉文化圏、銅鐸文化圏、神道祭祀文化圏、
水銀朱文化圏、積石塚墳墓文化圏、軽量薄型土器(東阿波型式)文化圏等々
同心円状に広がる文化圏の中心地、それが正に「邪馬臺国」(阿波)であった。   @阿波

806日本@名無史さん2022/11/12(土) 11:42:07.56
奈良盆地は飛鳥時代まで「忌部一族(阿波勢力)」の巨大墓地。    
飛鳥時代の奈良盆地は、倭国(阿波)王権の庇護のもと、百済人など朝鮮半島帰化人が暮らした朝鮮人街。
奈良盆地の発展は、8世紀の倭国(阿波)からの遷都(大和朝廷)から。   @阿波

807日本@名無史さん2022/11/12(土) 11:45:43.57
神武東征も壬申の乱も大化の改新も、ぜ~んぶ倭国(阿波)での出来事。 
7世紀末まで「阿波」の鮎喰川下流域に王都があった。
「阿波」北部には、鮎喰川下流域集落群の「矢野遺跡」や「庄・蔵本遺跡」
「阿波」南部には、那賀川下流域集落群の「加茂宮ノ前遺跡」「深瀬遺跡」 など、
「阿波」には、縄文時代から7世紀末までずっと続く、複合集落遺跡群が存在するが、
畿内や九州には、「阿波」のようにずっと続く王都たる複合集落遺跡群が存在しない。   

勇気のある人は、異論が有ればいつでもどうぞ。  わははははは   @阿波

808日本@名無史さん2022/11/12(土) 11:47:40.85
>>802
滅んでないでしょ
日本人の大半が九州説

809日本@名無史さん2022/11/12(土) 12:16:31.15
ど素人の大半が九州説
雑多九州説は一人一説

810日本@名無史さん2022/11/12(土) 12:18:35.36
>>807
やっぱり犬神が取り憑いているようだな

811日本@名無史さん2022/11/12(土) 12:19:21.11
積石塚墳墓文化圏=ツングース文化圏≠倭人

812日本@名無史さん2022/11/12(土) 12:24:57.79
>>808
>滅んでないでしょ

滅んでるよ
九州説なんて説は無い

813日本@名無史さん2022/11/12(土) 12:39:30.75
畿内説は100%作り話

■纏向周辺
・農地や住居はほとんど無く閑散とした土地
・周辺には大型古墳が立ち並ぶ(向きは滅茶苦茶)

■纏向出土品
・木製の土木用具多数
・東海産の飯炊き土器と鯖の骨、イノシシの骨、蛙の骨、桃の種などの残飯
・市が開催されるたびに設置された宮殿という名のステージと踊り子さんの仮装用仮面(木製)

■文献記録
日本書紀によると、纒向付近は大市と呼ばれる市でにぎわった町とのこと
魏志倭人伝によると、女王国の国々には市が有り、大倭を使ってそれを監視していたとのこと

814日本@名無史さん2022/11/12(土) 12:45:20.40
「大倭王居邪馬臺國」
つまり女王卑弥呼を共立したのは大倭政権

815日本@名無史さん2022/11/12(土) 12:46:06.03
宗像三女神は卑弥呼、台与、台与の後継ぎの三人のことであろうう

816日本@名無史さん2022/11/12(土) 12:47:27.50
沖ノ島祭祀はヤマト王権による4世紀後半からの祭祀

817日本@名無史さん2022/11/12(土) 12:47:32.47
>>813
あんたのその中傷が作り話だよ
だって出典が無いもの。自分で適当に想像しただけだろ?

818日本@名無史さん2022/11/12(土) 12:54:30.25
纏向付近の大市と呼ばれる市場がにぎわった?たくさんの買い物客はどこから来た?どこに住んでいる人?

819日本@名無史さん2022/11/12(土) 13:19:09.00
纏向遺跡は神社の跡地で神楽でお祭りをし、出店では桃を剥いて売ったりしていたのだろう

820日本@名無史さん2022/11/12(土) 13:31:16.75
お祭りの客はどこから来た?どこに住んでいる?

821日本@名無史さん2022/11/12(土) 13:32:17.66
>>819
どうして九州説はそんな考古学を無視した妄想ができるの?

822日本@名無史さん2022/11/12(土) 13:33:50.55
>>816
国の祭祀の対象となったのはその頃かもしれないが、物部神道があるように宗像神道はそれ以前からあって卑弥呼らを祀っていたと思う

823日本@名無史さん2022/11/12(土) 13:36:30.09
>>820
じゃあ箸墓古墳を作った人たちはどこから来たのかな

824日本@名無史さん2022/11/12(土) 13:44:46.87
>>821
考古学が追いついて来て無いだけ

825日本@名無史さん2022/11/12(土) 13:50:38.97
>>822

祭祀はどこでもやっている
卑弥呼らを祀っていたという根拠はない

826日本@名無史さん2022/11/12(土) 13:51:13.15
九州説の場合
邪馬台国が日田じゃないと無理
何故なら狗奴国が熊本になるので
地政学的にここを押えないと北九州すべて
狗奴国(熊襲)に取られる
鹿児島だの宮崎南部なんて絶対にない

纏向説
魏志倭人伝の内容がまるで違い
日本書紀が事実であるかのような遺跡

天照大神=卑弥呼と天皇を肯定させたいが
無理があり邪馬台国を滅ぼして自分らが天照大神を
継いだ事にしたいとしか思えない

他説の場合
福岡に一大率を置いているので近隣
出雲しかありえない
魏志倭人伝のルートが完全におかしくなるので
この線も消える
何故なら朝鮮から簡単に行けるから

阿波説
こじつけしているしか思えないよね

俺の結論

827日本@名無史さん2022/11/12(土) 13:52:09.86
>>799
別行程で投馬国→邪馬台国が正しいのよ

828日本@名無史さん2022/11/12(土) 13:54:46.73
>>822
なんで人間なんか祀るんだよ

829日本@名無史さん2022/11/12(土) 13:57:48.19
>>828
人柱でも祀られている

830日本@名無史さん2022/11/12(土) 13:59:21.42
>>829
罰ゲームだろうがよ
祀られたくねえよ

831日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:02:01.79
>>826

3世紀前半九州でもっとも発展している外港都市博多の首長層が
畿内の纏向と密接な交流関係なので考古無知の結論

832日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:04:43.95
>>831
本当に密接か?
よくわかんねえなあ

833日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:11:39.24
>>832
とにかく「認めたくない」の一点張りw
そして九州説はオワコンへ

834日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:14:24.09
>>833
違うけど
東日本のほうが密接だろ

835日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:20:52.93
>>832

纏向と密接な博多では供献土器を模倣制作して、
纏向と同じ九州最大の周濠に囲まれた神仙思想の三神山形の前方後円墳が造られた
神仙思想を図像化した三角縁神獣鏡は奈良がもっとも多く、次いで京都、福岡、兵庫、大阪
畿内と筑紫が圧倒的に多い

836日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:33:31.43
始皇帝が王に即位したのが13歳でBC247年
卑弥呼が死んだのがAC247年
大体卑弥呼と台与は経歴が似すぎだろ
依って台与は実在しない

837日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:35:02.49
>>816
宗像は誰を祭っていた?

838日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:38:10.34
>>828
神道は祖先崇拝が基本だよ。
つまり個人を祭るのが祭りの本来の意味でもある。

839日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:39:19.94
>>831

国際交易都市であった博多から見たら、畿内は交易相手のアンオプゼムに過ぎない。
畿内説は誇張しすぎ。

840日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:41:08.99
>>835

纒向に博多からの土器が出ないから、畿内から福岡に移住した人がいただけ。
纏向は博多の繁栄の利益を全く受けていない。

841日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:41:52.32
>>836

卑弥呼は即位の時にすでに年長大。
壹與は即位の時に13歳。
まったく似ていない。

842日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:46:36.57
>>841
魏志だから漢の時代の事は書かない

843日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:46:55.48
制詔にある汝の国中の人に示し知らしめるようにと特に汝の好物を賜った銅鏡は
百枚と数が多いので、曹操墓に副葬されるような希少な鏡ではなく、
3世紀の倭国に広がり始めた中国土着の神仙思想を親魏の倭王が倭人に広めることで漢化しようとしたものと思われる

844日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:51:18.49
>>825
宗像三女神は宇佐神宮で応仁天皇を差し置いて比売大神として中央で祀られている、
このことからも只ならぬ神という事がわかる。
『日本書紀』には「三女神を宇佐嶋に降り居さしむ」と記されている

845日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:51:51.92
>>840

博多では在地の工人による畿内の供献土器の模倣制作で
纏向の大型古墳の模倣築造
纏向では鉄器の副葬が急増する

846日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:52:01.43
>>840
>纒向に博多からの土器が出ないから、畿内から福岡に移住した人がいただけ。
纏向は博多の繁栄の利益を全く受けていない。

無知だなあ
畿内の庄内式を使う人々が博多に現れて支配者階級になっている
博多で作られた庄内式が纒向で出ている。
纏向は博多の繁栄の利益をたんまり受けている

847日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:53:42.69
卑弥呼も実在しないかもしれんけど陳寿はどういうつもりで倭人伝を書いたのかねえ?

848日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:56:59.95
>>844

宇佐神宮の創建は725年

849日本@名無史さん2022/11/12(土) 14:59:14.64
>>843
中国の意向で銅鐸から銅鏡に変わったのかな?
でも欲しがったのは卑弥呼だろ

850日本@名無史さん2022/11/12(土) 15:01:11.73
>>849

銅鐸はもう作られていない

851日本@名無史さん2022/11/12(土) 15:06:56.87
>>848
遷宮したのがその年で、本殿の下には二つの石棺が確認されている
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/kodaisinoumi1.pdf

852日本@名無史さん2022/11/12(土) 15:08:59.98
還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝
中国からの土産物を国中に分け与えろって事かな? 

853日本@名無史さん2022/11/12(土) 15:11:43.51
鏡が足りないから作ったのかな?
そうであれば三角縁神獣鏡かもな

854日本@名無史さん2022/11/12(土) 15:12:07.73
>>851

宇佐神宮本殿は人工の古墳ではない

855日本@名無史さん2022/11/12(土) 15:16:33.86
鏡作るから銅鐸寄越せと言われたから隠した?

856日本@名無史さん2022/11/12(土) 15:24:46.55
宗教や政治的な事に偏り過ぎだと思うけどな
もっと単純に俺も欲しい

857日本@名無史さん2022/11/12(土) 15:28:47.79
土器をつくる奴隷は実際どれくらい移動したのかな

858日本@名無史さん2022/11/12(土) 15:31:25.42
戦国時代茶碗とか陶器の価値が信じられんほど高かったんでしょ
それと同じで目利きが居たり

859日本@名無史さん2022/11/12(土) 15:32:26.37
>>854
自然の丘陵を利用し、頂上部分に菱形池を掘った土で手を加えて、亀山を 築いて石棺を埋葬したのでしょうね

860日本@名無史さん2022/11/12(土) 15:35:44.37
神社なんかどう考えても後の時代でしょ
遺跡が出ないのが証拠だし真面目に考えるのもあほらしい

861日本@名無史さん2022/11/12(土) 15:36:24.49
>>859
ただの山だ

862日本@名無史さん2022/11/12(土) 15:47:21.06
>>861
宗廟だけどな

863日本@名無史さん2022/11/12(土) 15:48:50.38
>>862
宗廟には墓はない

864日本@名無史さん2022/11/12(土) 15:54:44.49
廟とは
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

865日本@名無史さん2022/11/12(土) 15:57:57.24
>>864
転じてるうちにどれくらい時間が経ったの?

866日本@名無史さん2022/11/12(土) 16:02:50.57
宇佐には「宇佐に参るなら御許(おもと)に参れ 御許もと宮もと社(やしろ)」という言い伝えがあって現在の本殿は御許山の大元神社に向かい鎮座している
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

867日本@名無史さん2022/11/12(土) 16:08:12.77
>>866
いつから有るの?

868日本@名無史さん2022/11/12(土) 16:10:33.61
>>769
まさに神
すべての俺邪馬台国を論破

869日本@名無史さん2022/11/12(土) 16:19:22.65
>>865
卑弥呼より先に死んだ関羽の首塚が関林廟

870日本@名無史さん2022/11/12(土) 16:23:58.32
>>867
日本書紀に書かれている三女神が降臨した時からだからだいぶ昔のことじゃな

871日本@名無史さん2022/11/12(土) 16:46:56.26
>>869
だという証拠は?

872日本@名無史さん2022/11/12(土) 17:04:45.61
>>871
孫権は魏の曹操に関羽の首を贈ったが、たたりを恐れた曹操は、その首を手厚く葬ったという言い伝えが残っている

873日本@名無史さん2022/11/12(土) 17:08:28.99
関林廟の図を見ると日本の神社によく似ている
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

874日本@名無史さん2022/11/12(土) 17:21:44.71
>>826
日田は3世紀大和朝廷側の遺跡が多く
取り込まれているので
理に適っているよ

875日本@名無史さん2022/11/12(土) 17:23:32.10
>>826
>阿波説
>こじつけしているしか思えないよね

どこが?  勇気があれば言ってみ?   @阿波

876日本@名無史さん2022/11/12(土) 17:30:20.97
関林廟
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

籠神社
邪馬台国畿内説 Part823 YouTube動画>5本 ->画像>57枚

そっくり

877日本@名無史さん2022/11/12(土) 17:41:36.42
神武東征も壬申の乱も大化の改新も、ぜ~んぶ倭国(阿波)での出来事。 
7世紀末まで「阿波」の鮎喰川下流域に王都があった。
「阿波」北部には、鮎喰川下流域集落群の「矢野遺跡」や「庄・蔵本遺跡」
「阿波」南部には、那賀川下流域集落群の「加茂宮ノ前遺跡」「深瀬遺跡」 など、
「阿波」には、縄文時代から7世紀末までずっと続く、複合集落遺跡群が存在するが、
畿内や九州には、「阿波」のようにずっと続く王都たる複合集落遺跡群が存在しない。   

勇気のある人は、異論が有ればいつでもどうぞ。  わははははは   @阿波

878日本@名無史さん2022/11/12(土) 17:48:08.97
「邪馬臺」はヤマト。  同じく「倭」もヤマト。
「倭大國魂神社・倭大國敷神社」もヤマト。 
そのヤマトは、「阿波」だけ。   @阿波 

879日本@名無史さん2022/11/12(土) 17:48:51.74
魏が滅びたのが265年、魏の難民は倭国を目指したことが想像できる、邪馬台国を頼りにし最終到着点が奈良だったのではないだろうか、
そしてヤマト王権を作った、中国と違って強敵のいない倭国を統一するのは容易かっただろう

880日本@名無史さん2022/11/12(土) 17:49:52.62
>>802
理屈が通るのは、「阿波」だけだがな。  わははははは   @阿波

881日本@名無史さん2022/11/12(土) 17:52:37.12
理屈が通らないのは、畿内説や九州説。

「亀卜(卜骨)」 に限らず、「橘」「丹」「楠」でも

博多湾や奈良盆地は、どれをとっても、除外される。   @阿波

882日本@名無史さん2022/11/12(土) 17:54:13.98
@阿波が必死すぎて泣けるけど、全く興味が持てないのである

883日本@名無史さん2022/11/12(土) 17:57:24.21
>>882
それ、反論のつもりか?  わははははは   @阿波

884日本@名無史さん2022/11/12(土) 18:00:21.77
>>866
「お伊勢参らば お多賀へまいれ お伊勢お多賀の 子でござる」という歌が残っているが多賀大社の現在の祭神は後世のすり替えである事が指摘されている。
『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮(かくりみや、終焉の御住居)を構えたとあり、『古事記』真福寺本の【「淡海」は「淡路」の誤写】である可能性が高い。

885日本@名無史さん2022/11/12(土) 18:03:08.23
>>884
オノコロ島は、忌部の郷 吉野川中流域に出来た、日本最大の「粟島」「舞中島」などの砂洲。
「こをろこをろとかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった」
吉野川の洪水で、川底が「こをろこをろ」とかき回され、
砂が積もり重なって砂洲「粟島」「舞中島」などがオノコロ島となった。   @阿波

886日本@名無史さん2022/11/12(土) 18:08:22.20
>>883
犬神憑きと思って忌避してます

887日本@名無史さん2022/11/12(土) 18:09:40.83
>>879
中国五千年の歴史
何遍日本に来とんねん?

888日本@名無史さん2022/11/12(土) 18:13:47.80
>>875
阿波古事記

889日本@名無史さん2022/11/12(土) 18:15:46.04
>>872
つまり、関林廟が関羽の首塚だという証拠はないんだね?

890日本@名無史さん2022/11/12(土) 18:33:06.98
煙のないところに噂は立たないと言うだろ、
日本にもある関帝廟の本山が関林廟。
日本では4万社あると言われている八幡神社の総本山が宗廟である宇佐神宮

891日本@名無史さん2022/11/12(土) 18:41:16.68
>>888
お前の勇気は、「阿波古事記」と言うのが精一杯なのか?  わははははは   @阿波

892日本@名無史さん2022/11/12(土) 18:49:40.40
>>888
相手にするな、スレが無駄に消費されるだけだ。

893日本@名無史さん2022/11/12(土) 18:50:16.98
関羽の胴体の墓、関陵


894日本@名無史さん2022/11/12(土) 18:52:48.73
>>876

本殿と拝殿の構造は纏向遺跡もそっくりで、要するに現在の神社の建築様式は古代の王宮そのもの。
神社が発掘されていない云々とか騒いでいるアホがいるが、ちゃんと纏向遺跡のように発掘されている。

895日本@名無史さん2022/11/12(土) 18:55:49.91
そのままの形で立て直しを繰り返して今日まで施設として存続すれば宇佐神宮のようになるし、廃絶すれば纏向遺跡のようになる。
いずれにしても古社はその宮の主に結び付けられ、神道は本質的に個人崇拝、祖先崇拝であることがわかる。

896日本@名無史さん2022/11/12(土) 18:57:50.43
纏向遺跡の特徴は、本殿と拝殿の間に倉があることであり、その倉に八咫の鏡が納められていたという。
纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。

897日本@名無史さん2022/11/12(土) 18:59:52.57
>>894
わかってるよ
でも王宮は神社じゃないし誰か人を祀ってるわけじゃないよな

898日本@名無史さん2022/11/12(土) 19:01:42.23
主人が亡くなれば、主人を偲ぶ施設つまり故人を祭る施設となったということ。

899日本@名無史さん2022/11/12(土) 19:02:22.56
京都御所や皇居で誰祀ってるんだよ?

900日本@名無史さん2022/11/12(土) 19:02:44.58
纏向に神社があったと仮定して、その神社は遷宮したのだと思うよ。関わったのは物部氏でしょうね

901日本@名無史さん2022/11/12(土) 19:06:13.57
>>892
>相手にするな

負けるからな。  わははははは   @阿波

902日本@名無史さん2022/11/12(土) 19:10:56.04
>>900
そうやって、ひとことも理由を言わないのはトンデモの特徴

903日本@名無史さん2022/11/12(土) 19:15:14.57
収穫に感謝したり自然に対してのお祈りは太古の昔からやってただろうよ
でも人を祀るってのはどうも違和感がある
人物の何を御神体にしてたんだ?
後付けなんだろ

904日本@名無史さん2022/11/12(土) 19:20:28.46
王宮が神社になったのはそうだろう
だったら人を祀ったのは神社になった後の事だ

905日本@名無史さん2022/11/12(土) 19:24:21.85
纏向遺跡の復元図に似た石上神社は物部氏の総氏神で、籠神社も物部氏系です。これらの元宮が纏向だったのでしょう

906日本@名無史さん2022/11/12(土) 19:30:06.58
人物を祀るのもポコチンを祀るのも同じで客寄せだろ

907日本@名無史さん2022/11/12(土) 19:39:30.19
「加茂宮ノ前遺跡(縄文時代)」 令和元年 6月30日 徳島新聞朝刊

日常生活と祭祀をした場所が一体

阿南市加茂町にある加茂宮ノ前遺跡のは発掘調査では注目すべき成果がいくつもあった。
その一つに縄文時代後期(約4千~3千年前)の集落跡の発見を挙げることが出来る。
集落跡からは、竪穴住居2軒のほか、屋外炉(火を燃やした跡)、土坑などが見つかった。
注目されるのは、県内で初めて確認された円形配石遺構16基だ。
1基の円形配石遺構は、直径が1~3m。
人の頭よりやや大きい砂岩の河原石を円形に並べたもので、円の内部には小石や、
白色の小円礫(砂利)が敷き詰められていた。
また、16基あるサークルが一部重なり合っていることや出土した地層に高低差があることから、
全ての円形配石遺構が同時期に作られたのではなく、長期間にわたって順に造られたと考えられる。
配石遺構は、主に祭祀施設として利用されたと考えられる。
縄文時代前期から中期(約7千~4千年前)ごろ、
中部地方を中心として直径が50mを超えるような環状列石(ストーンサークル)が造られるようになった。
後期に入ると、その分布は東北地方にまで広がる。
一方、西日本では、こうした大型の環状列石は造られることはなく、代わりに小型の円形配石遺構が造られた。
しかし、発見された遺構は極めて少ない。
円形配石遺構が竪穴住居に近接している加茂宮ノ前遺跡の場合、
日常生活と祭祀をした場所が一体として発見された稀な例として、全国的に注目されている。 
(県埋蔵文化財センター事業課長・氏家敏行)   @阿波  

908日本@名無史さん2022/11/12(土) 19:41:31.08
>>802
理屈が通るのは、「阿波」だけだがな。  わははははは   @阿波

909日本@名無史さん2022/11/12(土) 19:46:46.44
>>908
阿波古事記がこじつけのアホバカってのは認めるんだな?どうなんだ雑魚www

910日本@名無史さん2022/11/12(土) 19:50:06.75
神社は王宮が元になってるくらいあの形状を見れば普通気付くよ

911日本@名無史さん2022/11/12(土) 19:50:16.92
ストーンサークルなら宇佐の米神山に立派なのがあるぞ

912日本@名無史さん2022/11/12(土) 19:50:26.88
>>802
理屈が通るのは、阿波古事記だけだがな。  わははははは   @阿波

913日本@名無史さん2022/11/12(土) 19:52:51.15
>>911
「石井・井ノ元遺跡」
「古墳時代前期 土器群が出土」 「祭祀用など250個以上」

石井町教委は15日、石井町石井の井ノ元遺跡から古墳時代前期(4世紀前半~半ば)の土器群が出土したと発表した。
県内で同時期の土器がまとまって出土するのは初めてで、町教委は「土器によって年代を決定する編年研究の基準資料となり得る」としている。
土器群は地下約1.8mで見つかり、南北10m、東西35mにわたって帯状に広がっていた。
完全な形を残す物だけで250個以上あり、うち7割を祭祀用と思われる小型丸底壺や高坏が占める。手ごね土器や石製小玉、鉄製鍬先なども発掘された。
町教委は、祭祀後に土器を捨てた場所と推定し、近くに祭祀が行われた遺構が存在するとみている。
南側に渡内川があることから、水の神を祭る祭祀が行われていた可能性もある。
今回照査したのは約1500m2。西側に隣接する石井幼稚園の改築工事に伴い、5月から掘削に取り掛かった。
近世(18~19世紀)から古墳時代前期にかけての4面の遺構が確認され、土器群のほか、
江戸時代の藍商屋敷に設けられていた石組み井戸や屋敷外の水田、飛鳥~奈良時代の素掘り墓35基なども出土した。
奈良時代の水田を形成する溝の方角が8世紀前半~中頃の条里制と一致することから、
石井町域でも阿波国府域と同時期、条里制に基づいて開発が進められていることも分かった。
町教委の菅原康夫文化財指導員は「今回見つかった土器群は、祭祀の内容や古墳時代の土器の様相を考える上で貴重な資料となる」と話している。
2017年11月16日 徳島新聞朝刊転記   @阿波

914日本@名無史さん2022/11/12(土) 19:57:45.49
卑弥呼復元


915日本@名無史さん2022/11/12(土) 20:00:03.78
「土佐ー阿波ー畿内を結ぶ四国東岸海岸沿い太平洋ルートを想定できる 芝遺跡」
芝遺跡は阿波南部地域で数少ない発掘調査を行った遺跡である。
県内では珍しい円形周溝墓をはじめ、竪穴住居等の遺構や弥生時代前期後半以降の土器・石器も出土し、
本地域の集落形態の様相が確認できた遺跡である。   
また、弥生時代終末頃~古墳時代前期前半頃にかけての搬入土器がまとまって出土したことから、
土器の搬入には鮎喰川下流域集団の関与が想定され、
一連の動きに「若杉山辰砂採掘遺跡」の朱が関わっていると考えられる。   
芝遺跡は土佐ー阿波ー畿内を結ぶ四国東岸海岸沿い太平洋ルートを想定できる遺跡であり、
海上交通に際しての人・物が集中する拠点集落であったと考えられる。   @阿波

916日本@名無史さん2022/11/12(土) 20:00:41.64
豊秋津嶋根分=豊国安芸津嶋の植民地

917日本@名無史さん2022/11/12(土) 20:00:48.57
>>802
理屈が通るのは、阿波古事記だけだがな。  わははははは   @阿波

918日本@名無史さん2022/11/12(土) 20:16:10.70
@阿波は現代の古語拾遺(愚痴拾遺)なのかw

919日本@名無史さん2022/11/12(土) 20:37:29.64
瀬戸大橋建設時に海底から数万点のサヌカイトの石器が見つかっている
サヌカイト石器の集団は、瀬戸内海がまだ陸地だった最終氷期からいたのかもな
日本最古の竪穴式住居は、サヌカイトの産地二上山の大阪側から見つかっている
日本の始まりから豊かで住みやすい瀬戸内海や大阪は栄えていたのかもしれないね

天地開闢で最初に生まれたのは葦の芽
なにわの枕詞は葦が散る
この辺りに葦原中津国の中心があったのだろうか?
上町台地の森ノ宮辺りや泉北丘陵には旧石器時代から現代までの人々の営みの痕跡が残っている

920日本@名無史さん2022/11/12(土) 20:43:57.95
イザナミは根の国から黄泉の国に、延喜式では上津国から下津国に移動している
延喜式には皇御孫之命は下津磐根に宮を建てたとある
道饗祭には湯津磐村という言葉も出てくる

下津国は黄泉の国
皇御孫之命の宮は黄泉の国の磐根に作られた?

921日本@名無史さん2022/11/12(土) 20:48:29.46
じゃあ、正式には、邪馬台国はヤマト国と呼ばれていたんですね。
日本風で、さもありなんですね。

922日本@名無史さん2022/11/12(土) 20:56:02.01
「邪馬臺」はヤマト。  同じく「倭」もヤマト。
「倭大國魂神社・倭大國敷神社」もヤマト。 
そのヤマトは、「阿波」だけ。   @阿波 

923伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 2022/11/12(土) 21:07:55.55
阿波にヤマトの地名は一切残って無いのに、ほの主張は無理がある。

924日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:23:47.82
>>899

仏教伝来以降は宮と宗教施設が分離するので、後世の御所はまた別です。
しかし、皇族を宮号で呼ぶのは昔の名残です。

925日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:27:42.80
>>905

崇神天皇も母が物部氏で、宮も石上神宮の近くだった。
しかし石上神宮が纏向遺跡(磯城瑞籬宮)の遷宮したものかと言えば違うだろう。
宮は一代一つが基本だから。
同じ一族だから様式が同じなだけ。
無理に同じとみなすのは日本の伝統を無視しています。

926日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:28:03.94
>>924
>皇族を宮号で呼ぶのは昔の名残です。

その皇族の住居銘を〇〇宮と呼んだ名残なんだろう。   @阿波

927日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:32:47.41
>>919

大阪が栄えていたことは想像に難くない。
物部氏の祖である饒速日は生駒山から国見をして日本という名の由来となった。

ただ、豊葦原中国が大阪かと言えば、それは明らかに違う。
豊葦原中国の王となるために邇邇芸が降臨したのは筑紫の日向つまり魏志倭人伝の伊都国であった。

928日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:32:59.02
>>925
お前みたいのは神社掘り起こすしかないな
纏向時代の建物跡なんて絶対出てこないから

929日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:34:42.24
>>927
しかし、根拠の全く無い妄想だけどな。  わははははは   @阿波

930日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:34:55.01
ヤマトすなわち倭は九州北部のこと。
畿内は日本。

931日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:35:28.72
>>930
しかし、根拠の全く無い妄想だけどな。  わははははは   @阿波

932日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:35:48.51
>>928

纏向遺跡がそれなんだけど。

933日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:37:43.77
>>932
纏向が有るから他は無いと言ってるのか
それはそうかもな

934日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:40:52.61
他がないとは言ってない。
纒向には他にもいくつかの天皇の宮があったことになっている。

935日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:44:15.57
しかし、ソロモン・シバ達の渡来伝は、とってもロマンティックですね
その渡来紀行を是非伺いたいものです

936日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:44:52.82
日本書紀の記述どおりの磯城瑞籬宮の遺構が出てきたのに、遠く離れた伊勢遺跡や、縁もゆかりもない卑弥呼と結びつけるのは、日本史でもなんでもない妄想。
近くの石上神宮との関係ならまだしも。

937日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:45:00.56
弥生時代後期の石器の一大製造拠点の池上曽根遺跡
二上山産サヌカイトの石剣や石槍だけでなく、紀ノ川産の石で作られた石包丁が作りかけも含め数千点も見つかっている
石器以外にも巨大神殿、石器の祠、楠の巨大井戸、蛸壺、鉄工房、銅鐸、巨大なヒスイの勾玉などが見つかっている
紀ノ川から二上山まで広範囲と交流があり、多様な文化を持つ人々が暮らす都市の先駆けみたいな大集落跡
住居跡から1000人くらいの人々が当時この集落で暮らしていたと推測できる

この数字は池上曽根遺跡のある摩湯丘陵に残る伝承とぴったり一致する
摩湯の丘陵の下から温泉が湧き、摩湯千軒といわれて繁昌の地であった。だが、あるとき、馬子が馬をひいて来て、馬蹄を浸したので、湯が汚れて有馬へ飛び去ったと伝わる

池上曽根遺跡は丘陵の海岸線に作られた、石器と湯の集落跡
延喜式の湯津磐村と関係があるのだろうか?

摩湯、スサノオのマユから生えてきたのは楠で、古墳時代の枯野伝説によれば楠から作られたのは軽船
湯や軽が名前につく神さまにイワナガヒメと結婚した八島士奴美神がいる
別名は、清之湯山主三名狹漏彦八嶋、篠清之繁名坂軽彦八嶋手命
池上曽根遺跡と何か関係があるのだろうか?

摩湯丘陵→摩耶山の有馬→古墳時代は河内、磯長の軽里辺り?

938日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:48:27.74
>>936
やっぱり石上神宮の下から王宮が出るかもと思ってるんだ
なんも出ないから

939日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:51:52.05
アリマと言えば孝徳天皇の皇子は有間皇子
孝徳天皇の諱は軽
有間皇子の歌が残っている

磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む

和歌山は面白いところで今も白浜の近くに岩代という地名が残っている

940日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:52:25.88
石上神宮の禁足地を掘ったら凄い貴重な遺物が出土するらしい。なぜか宮内庁の許可が必要だ。

941日本@名無史さん2022/11/12(土) 21:57:44.92
神社の敷地は王宮にしては小さい
下に埋まってるならはみ出した部分があるはず

942日本@名無史さん2022/11/12(土) 22:21:37.74
記紀で記された通りなら応神ー仁徳天皇の時代は4世紀後半で、この時代の古墳は百舌鳥古市古墳群より前の佐紀陵山型古墳の時代と重なる

考古学的には、百舌鳥古市古墳群が作られたのは、履中天皇陵が5世紀前半.仁徳天皇陵は5世紀中頃、応神天皇陵はその間となる

記紀と考古学的結果の数十年のズレ、そこに記紀では消された歴史があるかもしれない
百舌鳥古市古墳群辺りは土師氏の拠点
梅の土師氏は、国津神の元に留まったアメノホヒの後裔
月と風が手を組み梅が云々

月と風と梅の歴史が記紀では消されている?

943日本@名無史さん2022/11/12(土) 22:42:28.38
>>941

何と比べて小さいと言っているのか意味不明。
纏向遺跡は巨大都市と言い張っていたくせにw
それはともかく、弥生時代や古墳時代の宮とは、神社のような規模だったということ。
纒向だけでも、崇神天皇の他に垂仁天皇の纒向珠城の宮、崇神天皇の纏向日代宮などがあったとされている。
逆に、纏向遺跡を何キロもの巨大都市とするのは、他の纏向の王宮とかぶってしまうからあり得ない話だ。
日本史をまともに学べば、畿内説の主張は奇想天外なんだよ。

944日本@名無史さん2022/11/12(土) 22:44:27.05
>>942

神功皇后は卑弥呼の120年後、応神天皇は4世紀末と考えられているから、仁徳天皇陵は5世紀で辻褄が合う。

945日本@名無史さん2022/11/12(土) 22:47:17.90
>>943
伊勢遺跡クラスの神社なんてあるのか?
明治神宮や住吉大社ならそのくらいあるかもしれんけど

946日本@名無史さん2022/11/12(土) 22:51:37.68
物部守屋、阿都国を拠点とす。物部、中臣、藤原らが、国(出雲国、阿都国、倭国、日高見国)、神(春日山、鹿島神宮)を奪った。プリンスアシタカ、大彦(安倍大王)の物語。ぱやお。

947日本@名無史さん2022/11/12(土) 22:52:01.31
倭王だぞ
日本全体の王だぞ
それなりの規模は欲しいよな

948日本@名無史さん2022/11/12(土) 22:55:36.38
中国の使者は王宮まで来てるし見栄張ってるよ
ショボい所に王は居ないって

949日本@名無史さん2022/11/12(土) 23:33:56.41
記紀の枯野伝説と同じ話が播磨風土記にある
駒手御井は、難波高津宮天皇の御世、井戸の上に楠が生えた。
この楠は朝日が上れば淡路島を隠し、夕日が沈む頃には大倭嶋根を隠した。
よって、その楠を伐採して舟を造らせた。その舟は飛ぶように速く、一漕ぎで7浪を越え去ることができる。よって速鳥と名付けられた。
朝夕にはこの舟に乗り、御食を供えて、井戸の水を汲む。しかし、ある朝の御食の時に会えなかった。そこで、このような歌が詠まれた。

「住吉の 大倉向きて 飛ばばこそ 速鳥と云はめ 何そ速鳥」

これは結婚式の高砂の歌とそっくり
高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり

住吉に関する昔話に一寸法師がある
子のいない老夫婦が住吉の神に祈ると一寸法師を授かる
お椀を船に、箸を櫂にし、針を刀の代わりに、麦藁を鞘の代わりに持って鬼退治に出る
一寸法師は鬼に飲み込まれるがお腹の中から針を刺すと、鬼は降参して一寸法師を吐き出し逃走する

針は播磨のハリ、箸は土師氏のことだったりして
在地の人々が住吉を味方に引き入れ鬼退治をしたのか?空想が膨らむね

記紀で枯野伝説のセットのように語られているのが雁が卵を生む話
老夫婦が授かった一寸法師は、雁の子だったら面白い

花札では山にススキに月、山にススキに雁として描かれている
源氏物語の歌では雁は常世と関係付けて歌われている
心から常世を捨てて鳴く雁を雲のよそにも思ひけるかな

常世出でて旅の空なるかりがねも列に遅れぬほどぞなぐさむ

あかりなくにかりの常世を立ち別れ花の都に道やまどはむ

明治天皇が詠まれた歌にも雁が登場する
月見れば 雁が飛んでゐる 水の中にも映るなりけり

950日本@名無史さん2022/11/12(土) 23:52:39.00
住吉の話なのに、福岡ではなく大阪の話なのか?
畿内文化は九州北部からの移入ですね。
畿内日本国は筑紫倭国の別種、分家。

951日本@名無史さん2022/11/12(土) 23:53:18.58
播磨だから兵庫か。

952日本@名無史さん2022/11/12(土) 23:53:58.25
>>947

畿内の王宮が倭王にしてはショボすぎる。

953日本@名無史さん2022/11/12(土) 23:56:27.82
>>945

福岡なら香椎宮、箱崎宮、住吉宮あたりか。

954日本@名無史さん2022/11/12(土) 23:56:46.98
九州の王宮は竪穴式住居ですよ。対外的に恥ずかしい。

955日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:00:16.40
大阪の住吉も福岡の住吉も掘ってもなんも出てこねえよ

956日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:01:32.91
住吉は4世紀後半神功皇后と共に畿内に来たのかもな
瀬戸内海の伝承ではそうなっている
記紀では竹内宿禰と神功皇后はセットだね
住吉の神さまは複層的なのは興味深いところだが謎が多いね

住吉大社神代記に面白いエピソードが乗っている
仲哀天皇が亡くなった夜、住吉大神と神功皇后に密事があったと書かれている

957日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:04:21.68
九州の王宮は、紀元前の吉武高木遺跡から高床建物ですよ。
要するに、弥生時代の高床建物が、後の神社となる王宮の建築様式だということ。
殿上人は高床建物に住み、一般人は竪穴住居に住んだ。
高床建物に住んだ人々を、のちに神様扱いしたと。

958日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:11:31.43
>>956

ちなみにその密事の話は大阪ではなく、仲哀天皇が福岡の香椎宮て亡くなった時の話なので、福岡が舞台です。

959日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:19:48.86

960日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:24:22.36
当時、47歳だった神功皇后が妊娠するのは非常に厳しい話しです。
真実は品陀真若王夫妻の息子を応神天皇としたようです。

961日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:27:48.34
ちなみに、景行天皇から仲哀天皇までの九州にゆかりの深い天皇の和風諡号が、タラシヒコ。
この王統はタラシ王朝とも呼ばれる。
時代は違うが、遣隋使を送った日出処の倭王の名もタリシヒコ。
タラシ王朝に終止符を打ったのが神功皇后と住吉の神こと武内宿禰。
新たな倭王の王統となったのが、宇佐八幡宮に祭られる応神天皇すなわち八幡の神。
王宮は神宮に、王は神になった代表例。
八幡神社は、末社の数が全国で最多である代表的な神道の神社。
仏教とも集合され、八幡大菩薩と呼ばれる。

962日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:30:02.40
>>959
堆積物で柱穴の時期はわかるんじゃないのか?
近畿の遺跡はそれ発表されてるよな

963日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:31:01.37
>>959

最も古い倭王の王宮が筑紫にあると困る人たちがいるんだよ。
畿内説とかw

964日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:33:47.60
卑弥呼は宇佐神宮にて八幡神になったのです

965日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:33:52.45
>>962

時期ではなくて、高床かどうかもまだわかっていない

966日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:36:13.50
>>965
建物がどんなのかはそら分からないだろうけどさ

967日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:37:53.18
>>965

それは苦しい言い訳だ。
弥生時代に竪穴住居か高床建物でない第三の様式があったというのなら、それを証明しろよ。
考古学者の中に、信じたくないと駄々をこなるキナイコシがいるだけのこと。

968日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:41:37.42
王宮、皇居は高床式というのは、後の平安京紫宸殿までそのまま引き継がれている。
キナイコシら畿内説の信者は、日本の歴史を無視した暴論を吐きまくる。

969日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:41:46.96
>>966

だから>>957の「九州の王宮は、紀元前の吉武高木遺跡から高床建物ですよ。」
というのはど素人の願望で
「模型では高床式の建物となっていますが、平地式の建物を想定する案もあります。
また、発見された柱穴自体が、複数建物の柱穴が重複したもので、
同じ場所で数回の建て替えが行われたとする解釈も提示されています。
今後ますます研究が進展し、新たな発見が積み重ねられることにより、今とは異なる復元案が提示されるかもしれません。」
というのが福岡市の研究者の考え
そして福岡の学者は日本の学問の通説畿内説

970日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:42:21.57
>>967
柱の本数が分からないと見当もつかない
てか、なんでわからないんだ?

971日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:45:29.95
>>969
建物は想像で建ててるだけで2階3階建てだと全然形が違うかもしれない

972日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:48:16.83
>>971

2階3階建てだというのは?

973日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:50:08.27
>>972
吉野ヶ里とか実際建ててるけど実物がどうだか分からない

974日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:51:46.01
>>971

柱の太さで多層かどうかは概ねわかる。
柱の配置で構造も概ねわかる。
吉武高木は1階建で、廻り回廊があったと考えられている。
それゆえに、高床だがただの倉庫ではなく、後の神社建築と同じ回廊付きの王宮または宗教施設と考えられている。
マツリゴトをする施設という意味では、王宮も宗教施設も大差はない。

975日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:54:28.56
土器の絵とか参考にしてるんだろうけど
柱の本数もわからないなら見当がつかない

976日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:55:17.04
>>973

ああ、吉野ヶ里の建物については他の学者からも批判が出されていた
あれはバブルのころの箱物行政だから、今は復元建物はどの遺跡でも建てていない

977日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:57:21.53
>>974
それぞれ柱穴の時期が分からないと書いてるから
立て直したかどうかも分からないなんてあるのか?

978日本@名無史さん2022/11/13(日) 00:59:40.30
畿内についてはわからないこともわかると言い張り、それ以外についてはわかることもわからないと言い張るのが畿内説。
ダブルスタンダードなんだよ。

979日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:04:20.37
>>978

とど素人が思っても学問では何の影響もない
学者に異論が出れば議論される

980日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:07:52.77
建築技術としては、伊勢遺跡も纏向遺跡も、数100年は先行する吉武高木遺跡を継承しているのだが、一部の学者はそのことには触れたくないらしい。
吉武高木は三種の神器をはじめに揃えた遺跡でもある。
畿内説の信奉者には、都合の悪いことからは目を背ける癖があるらしい。

981日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:11:20.01
>>980

そういう意見は学者からは出されていない

982日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:13:33.49
誰が畿内に稲作を持ち込み三種の神器を持ち込み高床建物を持ち込み銅鏡を持ち込み銅矛を鉄鏃を持ち込んだのか。
明確に博多湾沿岸の勢力、志賀島の綿津見、皇祖とされる天津神、筑紫から出た伊予の大山祇や出雲の大国主や摂津の三島の神や住吉の神。

983日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:14:14.53
>>980
棟持柱建物が無いでしょ
そこが本州とは違うのよ

984日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:15:19.12
>>981

> そういう意見は学者からは出されていない

反対意見を述べている学者もいない。
いたら教えて。

985日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:17:26.32
>>982

朝鮮人も同じことを言う

986日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:19:57.45
>>983

纏向遺跡でも、棟持柱はひとつだけ。
崇神天皇が八咫の鏡を入れていた建物C、後の伊勢神宮の神明造りと同じ。

987日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:20:33.41
>>984

ど素人の何に?

988日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:25:34.88
>>986
だからそれが無いのは大違い

989日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:26:53.81
吉武高木の時代にはまだ八咫の鏡はない。

990日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:28:41.41
棟持柱は無くても影響は無いらしいから宗教的な意味合いでしょう

991日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:33:59.58
福岡市のHPでは、

「その中核である3号木棺墓でさえ、群集する墓の一つにすぎません。
個人の墓として他から独立するのではなく、あくまでも集団墓の一員である吉武高木遺跡の3号木棺墓は、
隔絶した存在である王墓の出現にいたるまでの、過渡的なものといえるでしょう。」

https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/yoshitaketakagi/know/

992日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:43:24.00
>>990

宗教的意味合いが棟持柱に付随するなら、吉武高木遺跡は明確に王宮ということになる。
纏向遺跡の大型建物Dは、吉武高木と同じ理屈で回廊付き高床建物とされている。
規模や付随する建築技術のレベルに違いはあれど、後の平安京紫宸殿もまた回廊付き高床建物に他ならない。

993日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:47:14.49
>>991

福岡市が何に忖度しているのかは知らない。
わからんわからんと言い張ればいいというものではないと思うが?

994日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:49:49.66
>>993

ど素人と違って学問に依拠しているから

995日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:51:29.01
>>992
棟持柱建物は本州には当たり前に関東まであるのよ
しかも弥生時代中期辺りと古くから

996日本@名無史さん2022/11/13(日) 01:57:48.09
九州の甕棺墓時代は首狩り、頭蓋顔面ど変形の風習がある
一方、本州にはそういった風習は無く、
九州島にはまったく無い倭人伝記載の卜骨の風習が関東まで拡がっている
当然建築も違ってくる

997日本@名無史さん2022/11/13(日) 02:59:04.51
>>996
有明海沿いに出土あるけど?

998日本@名無史さん2022/11/13(日) 03:38:27.70
歴史から消えた卑弥呼だけど日本書紀を読み解くと宇佐神宮で八幡神そして八幡大菩薩になった事が推論出来る

999日本@名無史さん2022/11/13(日) 03:41:10.31
日蓮系の本尊には八幡大菩薩が書かれているが、知らずとして卑弥呼にお祈りをしているのです。

1000日本@名無史さん2022/11/13(日) 03:44:44.83
土器や古墳をつくった奴隷は実際どれくらい移動したのかな


lud20230201071907ca
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