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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1568200811/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
(承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五
尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀掾j、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。
(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有¢ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大ウ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの
>>1 アホの
>>1 あー!スレ立てに気がつくのが遅かった!
スレ立て邪魔できなかったよ…
>>731 >邪馬台国は古墳や出土物など文化的繋がりのある畿内一帯
纒向はその王都<
「南≠東」などに拠って、×。
>>733 >>福岡から誰かが纒向に来ていたと言う証拠はないんだよ。<
>その証拠は、胎土分析で北部九州からの搬入土器が確認できるということで示されている<
類スレ主がまた「北部九州」とこっそり変えて、騙そうとしている。
周防灘海岸部の土器はあったらしいが、筑紫の土器はなかった筈。
>>78 イカガシコメは開化天皇の皇后。
子が崇神天皇。
>>738 >「短里を使って距離を計測する人」
「短里を使って記録する人」
「短里を知っている人」
に該当する人物を具体的に一人指摘すれば、『事実ではない』と立証できるww<
魏の役人らは、
「1里434m位の始皇帝の里」の5〜6分の1位の「短い里」を使って計測記録し、
皇帝らはそれを承認し、
陳寿もそれによって、魏志を書いた。
>>746 >一寸千里は現実的でない架空の法則<
洛陽付近の「大地平面」とみられる地域での、
現実的な近似的計測結果。
>>749 >「卑弥呼が自分を女王と仰ぐ倭国傘下の奴国が
無関係の畿内様式の前首長葬送儀礼を受け入れたと考えるのがおかしい」<
筑紫の方が、前方後円墳も祭祀土器の早くて古いから、
大和の前首長葬送儀礼を受け入れる事が出来ず、
類スレ主は、また×。
>>751 >>邪馬台国は古墳や出土物など文化的繋がりのある畿内一帯 纒向はその王都<
>大体いいけれど、「古墳や出土物など文化的繋がりのある」範囲だと、
倭国になるんじゃないか <
「南≠東」などに拠って、どちらも×。
>>757 >三世紀の日本列島はまだそこまでシャッフルされてない
だから同じ倭国でも畿内と吉備、筑紫、丹後、出雲などの文化的プラットホームの違いがまだまだ弁別できる<
倭国は、唐会要倭国伝の「正北抵新羅」などに拠ってほぼ北部九州であり、
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
大和説などは、「南≠東」などに拠って×。
>>758 >あのね、日本の優秀な考古学者が倭人伝に書かかれてる邪馬台国は畿内だと言ってるだからね。
畿内でしょう! <
「南≠東」などに拠って、×。
>>763 >その文化的プラットホームの違いの上に、共通の上部構造として乗せられたのが
前方後円墳祭祀(前方後方墳も可)と祭祀用供献土器の共通化だろう
古墳や出土物(祭祀用供献土器)とすれば、やはり「倭国」になると思う<
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、倭国は北部九州であり、×。
前スレ>994
ごめん(>_<)
読み取り損なって>999でおかしなレスをつけて申し訳ない
前スレ>973
>あなたのプレゼン能力、話法のリテラシーが低いということ。
いや? めちゃくちゃ高いだろ?
実際私一人でも、ほぼ九州説は駆逐しきったぞww
九州説で残っているのは頭のおかしい連続句読点、キウス、ザラゴキと
あとはイデオロギー的に反安倍、反日で書き込んでるお前くらいしか残っていない
そしてお前も、私の論証力に敵わずに入り口論で逃げ続けるだけじゃないかww
まあ、畿内説サイドには私レベルの人が4人いるから私抜きでも結果は変わらないけどさ
>それ故に、誰もあなたということに納得せず、
九州説は「納得してないにだー」って言い続けるだけの簡単なお仕事ですww
>あなたが嘘を並べ立てている詐欺師に見えるわけ(あくまでも個人の感想です)。
詐欺師は九州説だよw
常に嘘をつくし、論拠も例えば国を重ねて戸数をダブルカウントする二重帳簿詐欺だったりするしw
前スレ>994
ごめん(>_<)
読み取り損なって>999でおかしなレスをつけて申し訳ない
前スレ>973
>あなたのプレゼン能力、話法のリテラシーが低いということ。
いや? めちゃくちゃ高いだろ?
実際私一人でも、ほぼ九州説は駆逐しきったぞww
九州説で残っているのは頭のおかしい連続句読点、キウス、ザラゴキと
あとはイデオロギー的に反安倍、反日で書き込んでるお前くらいしか残っていない
そしてお前も、私の論証力に敵わずに入り口論で逃げ続けるだけじゃないかww
まあ、畿内説サイドには私レベルの人が4人いるから私抜きでも結果は変わらないけどさ
>それ故に、誰もあなたということに納得せず、
九州説は「納得してないにだー」って言い続けるだけの簡単なお仕事ですww
>あなたが嘘を並べ立てている詐欺師に見えるわけ(あくまでも個人の感想です)。
詐欺師は九州説だよw
常に嘘をつくし、論拠も例えば国を重ねて戸数をダブルカウントする二重帳簿詐欺だったりするしw
>>768 >奈良の纒向が有力だということで良いんだよ<
「南≠東」などに拠って、×。
>>770 >>纏向が消滅した4世紀初頭に造営が済んだ古墳って、どれ? <
箸墓古墳・・古墳から布留1式期(4世紀初め)出土 <
>不正解 箸墓は布留お0<
不正解。
米田に拠って、布留は南加賀の方が先であるから、×。
>>776 >なんでウソ書くの? 九州説って、そういう説?
>九州説また循環論法で自滅<
大和説は、「南≠東」などに拠って、×。
>>77 これは九州説はスレ荒らしと自ら公言してるようなものだな
>>77 >あー!スレ立てに気がつくのが遅かった!
>スレ立て邪魔できなかったよ…
これ、おそらく連続句読点その人なんだよな
今、こういう無意味な嫌がらせに情熱を傾けているのは、連続句読点一人だから
あと、長文コピペを貼るのも主に連続句読点
長文コピペ貼りは連続句読点以外にもいるけれど
連続句読点は「連続句読点名義」以外でも迷惑目的の書き込みを大量にしている
長文コピペは自分で書いたもの以外も連続句読点が貼り付けているのが多いので、
文章から書き手を想定していると連続句読点の迷惑行為を過小評価することになる
纏向は古墳造営のキャンプ地
これへの反論はあまりない
>>96 そのトンデモ説、鎧袖一触で完全封殺されてなかったか?
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ひれ伏すばかりなり。 @阿波
異母兄弟のケンカも、
ついに、おまいのかーちゃんデ・ベ・ソ のレベルに下がってきたな
キナイコシが他スレを荒すから報復を受ける
どちらもどちら
いい加減に、纒向は尾張の傘下のマイナー拠点だと認めたらどうだ?
近畿地方は尾張氏と物部氏の祖である饒速日の王国だったんだよ。
纒向を宮と見なすなら垂仁天皇の纒向珠城宮や景行天皇の纒向日代宮に比定するべきだろう。
邪馬台国を持ち出すのは筋違いも甚だしい。
日本史の史書とも魏志倭人伝とも全く整合性が取れない畿内説など、妄想だとしか言いようがない。
>>96 >纏向は古墳造営のキャンプ地
>これへの反論はあまりない
古墳のような巨大モニュメント=見える権力・見せる権力は、
王都周辺または王都への街道沿いに作られる
列島最大の墳丘墓の所在地が王都近辺であるのは確定
古墳造営の人を食べさせるだけの経済力があるのも王都周辺だ
古墳造営キャンプなどという意味のない造語を捏ねくり回したところで
そこが王都近辺であることは動かない
「加茂宮ノ前遺跡」 や「板野・鳴門古墳群」のような、稀有で特異な遺跡がない九州や畿内に、邪馬台国が在る訳がない。 @阿波
>>103
>列島最大の墳丘墓の所在地が王都近辺であるのは確定
その通り。 倭国(阿波)だ。 @阿波 >>101の投稿で
ナリスマシや異常な荒らしを続けてる連続句点は
相手の区別がつかない「キナイコシ」連発男だと
判明した
そこが王都近辺であることは動かない・・、というのは、権力が定まった4世紀になってからのこと。
>>102 >纒向を宮と見なすなら垂仁天皇の纒向珠城宮や景行天皇の纒向日代宮に比定するべきだろう。
それでいいよ?
何を言ってるんだ?
磯城と纒向は一体の地だから、崇神天皇から3代の都が纒向と見ればいい
>邪馬台国を持ち出すのは筋違いも甚だしい。
ここが頭悪いよなw
崇神、垂仁、景行が邪馬台国の指導者ってだけ
崇神と垂仁は佐治国の男弟と官筆頭の伊支馬として魏志倭人伝にも記載されている
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(ベトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
大阪府堺市の百舌鳥古墳群は、
瀬戸内海が、干満による潮流が非常に速く、世界有数の難所であることから、
潮待ち港を造り、澪標(みおつくし)を完全に整備された五世紀 雄略天皇の時期以降、築造されたものだろう。 @阿波
>>103
>列島最大の墳丘墓の所在地が王都近辺であるのは確定
その通り。 倭国(阿波)だ。 @阿波 >>109の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│↓「陸行1月」(幻).│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」 >>107 こうやって編年研究を無視した寝言に走るから、九州説は学説として成立し得ない
纒向石塚古墳は2世紀末から3世紀初頭
>>113
大阪府堺市の百舌鳥古墳群は、
瀬戸内海が、干満による潮流が非常に速く、世界有数の難所であることから、
潮待ち港を造り、澪標(みおつくし)を完全に整備された五世紀 雄略天皇の時期以降、築造されたものだろう。 @阿波 >>113 日本史学を無視した一部の考古学者の戯言。
とにかく邪馬台国にこじつけるために編年の前倒しをする神の手(禁じ手)だ。
だから畿内説そのものがマユツバになる。
>>787 >これも「公知で広く認められている説」だ 個人の考えという訳ではない
「何処がおかしい」ではなく、 「個人の考えだから」というのは何の反論にもならないって早く気付けや<
「公知で広く認められている説」というだけなんて、何の価値もない。
誰の説であろうと、
自然や歴史での観察実験計測事実や史料事実からの帰納的で確率の高い推論、
が価値がるのだよ。
>>115 >4世紀にはまだ過渡期で政権が固まってないだろ。
何をもって「固まった」というのか要領を得ない
>>791
>バカ丸出し
魏志倭人伝の里程は短里
↓ ↑
根拠は魏志倭人伝が短里で書かれているから
並みのバカでも、これはおかしいって気づくぞ レベル1まで行かない循環論法
要するに「根拠ゼロ」ってことww<
また「南→東」などの嘘付き騙しの(東大理系博士号を自称する)類スレ主が、
インチキをやっているな?。
正確には、
魏志倭人伝の里程は、
始皇帝の1歩=6尺から出て来る1里≒434m位の里ではなく、
それの5〜6分の1位の「1里≒60〜90m」の短い里で書かれているようだから、
↓
魏志倭人伝が短い里で書かれている、
という事だ。
自称東大理系博士は、このように、
相手の主張を少し改竄して循環論法になるようにすり替えて誹謗する悪質な詐欺師である、
という事だ。
しかし、気を付けましょうね。
オームや京都アニメ犯人や朝日記者射殺犯人などの「思想に狂った人間」は、怖いですから。 >>117 >「公知で広く認められている説」というだけなんて、何の価値もない。
一見もっともらしいけど
そういうセリフは得てして
トンデモ我流説さんが自己満足・自己弁護で言うことが多い
要は、都市伝説みたいに広がった「ニセ公知」と
多くの人を納得させてきた実績ある「本物の公知」が
区別できればよい
違いは。根拠がサラッと出せるかどうかだ
>>119
>何をもって「固まった」というのか要領を得ない
斉一性のある「東阿波型土器」や「前方後円墳」の全国展開をもって、「政権が固まった」と言える。 わははははは @阿波 >>121
>違いは。根拠がサラッと出せるかどうかだ
根拠をサラッと出せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>792 ≧九州説のいう「纏向と北部九州は交流なし」は既にとっくの昔に否定されている
逆方向の畿内様式土器が比恵那珂遺跡群で大量に作られていることだけで
「纏向と北部九州は交流なし」は否定されつくしているんだがなww<
ダメだ。
明大佐々木の紀要では、3世紀前半の筑紫の庄内は、筑紫の胎土で造られているという書き方であり、
そして、大和の庄内は、石塚の庄内1からだから、3世紀末からだ。
つまり、大和説学者らは、
「大和から筑紫への庄内の搬入?」を50年位古くするインチキをしていたのだ。
畿内説がさらっと証拠を出せばいいのに、ここまでグダグダ
>>116 >日本史学を無視した一部の考古学者の戯言。
なーんて断定するなら
編年に反論してる歴史学者の名前と論文名を言ってみろ
言えないなら
「日本史学を無視した」
なんてセリフは偽物の権威を借りたハリボテ駄ホラだよ
>とにかく邪馬台国にこじつけるために編年の前倒しをする神の手(禁じ手)だ。
>だから畿内説そのものがマユツバになる。
これが全く笑える
「こじつけるために編年の前倒し」とか決めつけてるだけで
ひとことも理由を言ってない
つまり
>>116こそがマユツバの典型だ
だって「読者だれにも理由のわからない主張」なんだもん
>>126 >畿内説がさらっと証拠を出せばいいのに、ここまでグダグダ
さらさらっと出してますが、何か?
キナイコシが個人の考えを確定した事実であるかのように次の論拠とするから、砂上の楼閣のような畿内説ができあがる。
それはほぼ妄想といえる。
編年は前後関係を明らかにするかもしれないが、絶対年代を与えるのには適していない。
それをさも絶対年代のようにとらえて、卑弥呼の時代の奴国の首長墓が那珂八幡だとか断定して議論を進めるアホがいる。
すると何かね、キナイコシによると那珂八幡の被葬者が兕馬觚だということになるのかね?
邪馬台国はヤマト政権
邪馬台国は鬼の政権
纒向は鬼の巣窟
殉葬や生贄の何が楽しいんだか
絶対年代の手がかりを、黒い箱や、日韓の黄砂や、空気シャワーが命中した桃の種にしてしまったのではないのかな。。
130日本@名無史さん2019/09/14(土) 08:52:36.09
編年は前後関係を明らかにするかもしれないが、絶対年代を与えるのには適していない。
それをさも絶対年代のようにとらえて、卑弥呼の時代の奴国の首長墓が那珂八幡だとか断定して議論を進めるアホがいる。
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12291739595.html ↑ この頁の一番下にある古地図
この古地図には、現代の地図とは90度回転して
日本列島が記載されている
もしかして魏志倭人伝の筆者も、この地図のように
日本列島を認識していいたとしたら
邪馬台国にいたる道程を東西南北の方向が90度回転して
いたのではないかな
そうだとすると 近畿説で正解。
南にあったと記載されている敵対国は、東にあったんだから
関東か 蝦夷(東北)かな
異母兄弟のケンカも、
おまいのかーちゃんデ・ベ・ソ の レベルに下がってきたな
そこが王都近辺であることは動かない・・、
というのは、権力が定まってきた4世紀以降になってからのこと。
>>129 >キナイコシが個人の考えを確定した事実であるかのように次の論拠とするから、砂上の楼閣のような畿内説ができあがる。
>それはほぼ妄想といえる。
「個人の考え」連呼くんが誰だかだんだん明らかになってきました
特に笑えるのが連投の次の一行目
「編年は前後関係を明らかにするかもしれないが、絶対年代を与えるのには適していない。 」
これって
「個人の考えを確定した事実であるかのように次の論拠と」してて
「砂上の楼閣」
になってる
まさにその典型
朝から九州説がブーメランで自己撲殺
笑えるわ
つまり、5ちゃんねるを活発に見せかけるために、頭の悪いプロ固定が宣伝していた、破綻した邪馬台国畿内説は、、
もしかして魏志倭人伝の筆者も、この地図のように
日本列島を認識していいたとしたら、、、という仮説を前提にした上の仮説だったのだな。。。
134日本@名無史さん2019/09/14(土) 09:01:23.74
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12291739595.html ↑ この頁の一番下にある古地図
この古地図には、現代の地図とは90度回転して
日本列島が記載されている
もしかして魏志倭人伝の筆者も、この地図のように
日本列島を認識していいたとしたら
邪馬台国にいたる道程を東西南北の方向が90度回転して
いたのではないかな
>>137 >というのは、権力が定まってきた4世紀以降になってからのこと。
「権力が定まってきた4世紀」
って、誰がどんな理由で決めたの?
これも
「個人の考えを確定した事実であるかのように次の論拠」とした「砂上の楼閣」の典型?
九州説爆死しすぎ
「編年は前後関係を明らかにするかもしれないが、絶対年代を与えるのには適していない。 」という文章は、個人の考えではなく、真実である可能性が高いな。。。
>>142 そうだね、、、
絶対年代が判明していない物体の絶対年代を知るためには、絶対年代が判明した複数の基準からの前後関係が判明しただけでは、ある基準と別の基準の間の期間の物体であるということしか分からないのだったな。。。
この「個人の考え」くんって
もしかして「私見」くん?
脳の腐敗程度が同じだ
つーかモノの考え方浅薄さが岡上チック
つまり論拠があるか論理が確かかを一切吟味せず偉い先生が言ったことかどうかで真偽を判断するタイプ
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するキナイコシが、自爆死してしまったな。。。
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するキナイコシが恐れている、あの伝説的な人物である優れた岡上氏が出現したのだろうか。。。
頭の悪い奧山氏が、頓珍漢な勘違いを始めたな。。。
146日本@名無史さん2019/09/14(土) 09:17:07.30
>>142 どんどん誰だか判っていく
>>805 >九州説さん、また反論できなくなって 罵りの一行レスですか
それだから 九州説は学問でいられなくなったのですよ<
大和説さん、また「南≠東」などに反論できなくなって
罵りの一行レスですか
それだから
大和説は学問でいられなくなったのですよ
>>805 >九州説さん、また反論できなくなって 罵りの一行レスですか
それだから 九州説は学問でいられなくなったのですよ<
大和説さん、また「南≠東」などに反論できなくなって
罵りの一行レスですか
それだから
大和説は学問でいられなくなったのですよ
>>807 >>祇園山にも「62人以上の奴婢」らの殉葬墓にがある。<
>ないよ そんなもの無い ただの村の共同墓地だ <
共同墓地なら、100m位離れた所に「祇園山古墳群」という共同墓地が、
別にきちんとる。
>須恵器も出てる<
筑紫では、既に、吉武高木からも、出土している。
このように九州説は歴史を根底から破壊しないと存在し得ない
大阪府堺市の百舌鳥古墳群は、
瀬戸内海が、干満による潮流が非常に速く、世界有数の難所であることから、
潮待ち港を造り、澪標(みおつくし)を完全に整備された五世紀 雄略天皇の時期以降、築造されたものだろう。 @阿波
>>103
>列島最大の墳丘墓の所在地が王都近辺であるのは確定
その通り。 倭国(阿波)だ。 @阿波 >>119
>何をもって「固まった」というのか要領を得ない
斉一性のある「東阿波型土器」や「前方後円墳」の全国展開をもって、「政権が固まった」と言える。 @阿波 >>121
>違いは。根拠がサラッと出せるかどうかだ
根拠をサラッと出せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>1 > 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
なんで女性?
西日本各地に勢力を持ってた物部の族長であろう。
>その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
箸墓建造開始は3世紀後半、石野さんの言われる280年、または寺沢さんの言われる270年ごろ。
被葬者は上記、物部の族長であるイカガノシコオ。
根拠は近似古墳である山代の五塚原がイカガノシコオの義理父・長溝、
交野の雷塚がイカガノシコオの子で交野連タベノスクネ、
彼らしか被葬者候補がいない事。
>纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
というわけで纏向は物部の政庁跡、
卑弥呼(Bei mei hu)=比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉こと
ヒメ(踏鞴五十鈴)后は葛城にいた。
>>820 「南→東」などの嘘付き騙しのように 思考停止して、
普通の成人や人類が99.9%以上全く間違えようが無いような史料事実の否定曲解を、
ただ言い張るのが
トンデモ信仰の大和説
>>161 >・・・寺沢さんの言われる270年ごろ
そのガセネタ、どっから流れてんの?
>>163 寺澤さん自身の編年。
かれが卑弥呼墓=箸墓古墳と言ってるソースある?
>>823 >那珂八幡古墳は奴国の首長墓だぞww<
奴國は、日向峠西麓〜早良平野部の国であり、
那珂八幡は、邪馬壹國女王之所都地域の墓だぞ。
類スレ主ら大和説者らは、言い訳一つまともにできないんだな。
やっぱりこいつ「バカ丸出し」だわ
>>824 >>君の個人的な仮説を絶対的なものとして押し付けるから、話しが噛み合わない <
>押し付けてなんていないぞww<
「南→東」などの嘘付き騙しを押し付けている。
>>826 「南→東」などの嘘付き騙しの指摘に対して、
具体的な反論から逃げ続ける、
いつもの惨めな大和説の姑息な言い逃れしかない
>>168 九州説の人の書いた「具体的な」反論って、どこにあるの?
具体的に教えてね
>>161
>西日本各地に勢力を持ってた物部の族長であろう。
その通り。 「忌部はん」 の族長である。 @阿波 >>161
>というわけで纏向は物部の政庁跡
というわけで纏向は「忌部はん」 の「古墳造営前線基地」。 @阿波 >>164 >寺澤さん自身の編年。
寺澤さん自身の編年だという証拠は?
僕達の編年では、箸墓古墳は4世紀後半に出現した物体なのだったな。。。
>>828 >>比恵那珂遺跡群では畿内の土器相の変遷に同期して順番に出土しているww <
ダメだ。
弥生銀座の庄内は3世紀前半からであり、大和の庄内は石塚の3世紀末からであるから、
「同期」していない。
これで、九州と大和は同期しているとか言っちゃうんだから、
大和説の類スレ主らは頭が悪い
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する奧山氏と、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する小学率は、脳波が「同期」しているのではないのかな。。。
>>176 だから、同一人物の可能性が高いのだったな。。。
>>173 yahooジオスティーズの土器の編年というサイトにあった。
というか毎度のように質問返しで逃げてるけど、寺沢さんが卑弥呼墓=箸墓古墳と言ってる根拠は?
yahooジオスティーズの土器の編年というサイトは、絶対年代を決めた理由は書かれていない可能性が高いな。。。
>>179 「編年は前後関係を明らかにするかもしれないが、絶対年代を与えるのには適していない。 」という文章は、個人の考えではなく、真実である可能性が高いな。。。
倭国乱れて大騒動で、矢やっとこさ女王卑弥呼の共立に持ち込んだ。
ところが今度は、南の方では狗奴国の反抗が続き、帯方郡に軍師の派遣を依頼するしまつ。
悪いことに卑弥呼が死んで大急ぎで墓をつくり、
葬式が住んで男王が立とうとしたら、又もや倭国乱れててんやわんや。
そんな不安定な時代に箸墓なぞ作ってるヒマなかろうが、、。まして女王の権力基盤が定まっていたなどとバカもたいがい。
>>180 土器に限らずだけど、そうだと思うよ
石積みの方法も野面積みとか打ち込みや切込みとかあるけど
この積み方だからこの年代
というのは成り立たない
この積み方は新しいからこれより昔ではないだろう
という予想ができるだけ
土器も同じだよな
昔のデザインを200年後の時代に造ったとかあり得るもんな
>>858 >は?
奴国の首長墓である那珂八幡古墳が前方後円墳である以上、奴国の中枢がそれまでの
北部九州の墓制を離れて列島の広域での合意に従って新しい葬送祭祀を選んだのは
否定のしようがないだろ? <
ダメだ。
奴國は、弥生銀座の那珂八幡付近ではなく、「日向峠西麓〜早良平野」付近だ。
>>179 >絶対年代を決めた理由は書かれていない可能性が高い
年輪年代ね。
纏向石塚がAD177*18
二口かみあれた258年=庄内3式
こういうのがあるから石野さんも寺澤さんも箸墓=卑弥呼墓とは言ってないのであろう。
なぜ精神科(刑務所でも良い、わかりやすく言うと死刑)に行けと言われているのか、
わからないんだろう、テレビwなど観ている?
犯罪者のような人間ばかり出てくるでしょ
つまり、纏向石塚の出現した時期は、黒い箱の中身が正しく計測されていれば、AD177+18より後だという事だけは確実なのだな。。。
185日本@名無史さん2019/09/14(土) 10:59:17.58
>>179 >絶対年代を決めた理由は書かれていない可能性が高い
年輪年代ね。
纏向石塚がAD177*18
実際は、
このスレなどの住人に言っているわけではないんだけど、
メディアなどに出てくる人間は、ほとんど犯罪者だろう
>>181 >悪いことに卑弥呼が死んで大急ぎで墓をつくり
塚は一日でできると思う。
墳は10年以上か。
箸墓は墳墓。
その墳の建造開始が卑弥呼の死であるはずがない。
卑弥呼が死んだ時にはとっくに完成してないと。
>>188 纏向石塚を積み上げたときに、100年以上前の年輪の木が混ざった可能性が高まってきたね。。。
絶対年代の手がかりを、黒い箱や、日韓の黄砂や、空気シャワーが命中した桃の種にしてしまったのではないのかな。。
>>192 カニ星雲が出現したときのエネルギーが巻向を直撃した可能性が、そうではない可能性よりも高いのだったな。。。
>>161
>西日本各地に勢力を持ってた物部の族長であろう。
その通り。 「忌部はん」 の族長である。 @阿波 >>161
>というわけで纏向は物部の政庁跡
というわけで纏向は「忌部はん」 の「古墳造営前線基地」。 @阿波 >>178 >yahooジオスティーズの土器の編年というサイトにあった。
つまり、また証拠の出せないガセネタなんだな
>というか毎度のように質問返しで逃げてるけど、寺沢さんが卑弥呼墓=箸墓古墳と言ってる根拠は?
それもウソ
寺沢さんが卑弥呼墓=箸墓古墳と言ったなんて
誰も言ってない
つまり「毎度のように質問返しで逃げてるけど」
というのも真っ赤なウソ
あんたウソ多すぎだろ
NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、と高校生に教えていたな。。。
>>182 出たよ
九州説名物「考古学完全否定」
九州説即死を避けるには必要不可欠かw
>>199 ん?
どういうこと?
なんでいきなりそうなるんだ?
お前頭悪いだろ
野面積みだから古いというのは成り立たないんだぞ?
理解できてるか?
>>109の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲▲↘「陸行1日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│↓「陸行1月」(幻).│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」 >>869 「常識を疑え」という格言を
無知と「南→東」などの嘘付き騙しの非常識の、
免罪符にする大和説
>>185 >二口かみあれた258年=庄内3式
>
>こういうのがあるから石野さんも寺澤さんも箸墓=卑弥呼墓とは言ってないのであろう。
まいどトンデモくんの持ち出すガセネタ
絶対に証拠は出せないって
バカじゃね?
詐欺師と書いた名刺配ってんのと同じだ?
立小便男は、白馬社が出版した最新邪馬台国事情という書物の中で発表された、寺澤薫氏の「個人の意見」を、yahooジオスティーズの土器の編年というサイトで見た可能性があるな。。。
178日本@名無史さん2019/09/14(土) 10:29:44.27
>>173 yahooジオスティーズの土器の編年というサイトにあった。
>>204 だから、証拠出せないんだろ?
それを承知で連呼する
詐欺師だよ
二口かみあれたは、白エビビーバーを販売している加賀温泉の近くの遺蹟なのではないのかな。。。
>>206 白エビビーバーを大量に頂いたが、あまり僕達の口に合わず、食べきれなかったので、孫に持たしてあげたのだったな。。。
>>109 >>201 卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し混乱が生じる。
また、軍事力(鉄製武器)も通信手段(文字・駅伝制=早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
魏志倭人伝を史料として採用する以上、消去法によって九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は扇状地の最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 白馬社が出版した最新邪馬台国事情という書物の中で発表された、寺澤薫氏の「個人の意見」にも、絶対年代の証拠は無いな。。。
>>872 「南→東」などの嘘付き騙しである事が確定している通説学者たちの説も、
通説信仰の素人の思いつきも
「史料事実や史料実態に合わない」の一言でクソミソにされてしまう大和説
>>874 たしかに「南≠東」などの史料事実や史料実態は、
大和説盲信ボケガキを絶望発狂させるには、
十分だな
>>109 >>201 帯方郡
↓↓
↓東治
↓↓580q「陸行一月」
東冶(12,000里)≒倭国「女王之所都」
中国大陸の道里の倭国への転用か!
九州説の人間はなぜか対人コミュニケーションに難があるようだ
こちらがいくら話しかけても応答がおかしい
>>208すると、欽明(現・皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の末裔/八代淡海→「近江」)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するキナイコシは、コミュニケーションを司る脳の部分を破損しているので、話が通じないのだったな。。。
>>216の続き
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0 その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
カニ星雲が出現したときのエネルギーが巻向を直撃した可能性が、そうではない可能性よりも高いのだったな。。。
>>218の続き
ダイワとしか読めない大倭(後漢書東夷伝からの借用)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
また7世紀の隋・唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった(九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トランプ大統領)との友好親善を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として遂行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。
倭国乱れて大騒動で、やっとこさ女王卑弥呼の共立に持ち込んだ。
ところが今度は、南の方で狗奴国の反抗が続き、帯方郡に軍師の派遣を依頼するしまつ。
悪いことに卑弥呼が死んで大急ぎで墓をつくり、
葬式が住んで後継ぎに男王が立とうとしたら、又もや倭国乱れててんやわんや。
そんな不安定な時代に箸墓なぞ作ってるヒマなかろうが、、。まして女王の権力基盤が定まっていたなどとバカもたいがい
>>208 >>216 >>218 >>220 以上まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の京都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて九州島を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝〜応神朝〜継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆〜天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの畿内にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(時間の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智の倭京(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A新羅からの朝貢で調子に乗って、世界の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐れ慄いた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)
-継体による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html -熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html >>880 >>柱穴があって、かまどやトイレや寝室がないのかい?。
そんなものでは、大集落跡にはならないよ。<
>ならん理由は? 九州説さん、また個人的感覚で決め付けかあ? <
倭人伝では、「有屋室、父母兄弟臥息異處」であり、
馬韓では、「居處作草屋土室、形如冢。其戸在上舉家共在中、無長幼男女之別」であり、
西新町遺跡では、半島系のカマドがあったようであったよ。
これだから九州説はいつまでたっても日の目を見なかった
>>116 >とにかく邪馬台国にこじつけるために編年の前倒しをする神の手(禁じ手)だ。
これが「勝手な個人の思い込み」を事実だと断定して、
それを前提として他人の営為を否定するというww
無根拠にして卑怯で姑息なやり方
九州説のやることは基本的にいつもこれ
自説に都合のいいことはただの妄想であっても正しい事実
畿内説の主張はいくら根拠があっても確定しない部分が一つあれば
それだけで内容の是非とは無関係に否定
カニ星雲が出現したときのエネルギーが巻向を直撃した可能性が、そうではない可能性よりも高いのだったな。。。
>>226 「ハル子さんや、ひるごはんはまだかのう」
「お義父さん、さっき食べたでしょ」
とかループしてるのかな
>>222 継体は九州を攻めた側だぞ?
白雉は白鳳の、朱鳥は朱雀の劣化コピーであり、おそらく白鳳と朱雀が本当の倭国の年号だろう。
【倭国】
弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭国が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことであるという説がある。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
連合国家である倭国の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は一貫して筑紫が独占していた。
卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
これに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
平安時代に、カニ星雲が出現したときのエネルギーが巻向の上空を直撃し、想像を絶する規模の空気シャワーを生み出し、大量の中性子が降り注ぎ、纏向の地表付近に埋まっていた桃の種を構成する炭素14原子の相当数が、中性子を捕獲し、別の物質に変換された可能性が高いな。。。
>>231 動植物(桃の種、人類、プランクトンなんでも良い)〜、
その他が誕生したという話?
>>230 王位の証をコナゴナに割っちゃうってナニソレ?
滅んだの?
九州滅んだの?
海月姫?
歌舞伎の話でしょ、そもそも何の話なんだろう
>>886 >(那珂八幡)奴国の領域全体で、当該時代で卓越した最大の巨大墳丘墓であること<
「奴国の領域」というが×であり、
筑紫には、同じ大きさ位の前方後円墳は、他にもある。
>>また、それが卑弥呼の時代のものだという根拠は?<
>墳形がいわゆる纏向型前方後円墳であること、葺石、埴輪はないことから、
箸墓古墳以降の定形型前方後円墳ではない
これだけの情報で、3世紀半ば以前であり、
2世紀末〜3世紀初頭以降であることが分かる <
前方後円墳は、卑弥呼の冢ではないから、那珂八幡などは始めから卑弥呼の墓ではなく、
3世紀後半半ば過ぎだ。
>>196 >つまり、また証拠の出せないガセネタなんだな
以前、お前に森井、森岡編年とともにおまえに見せてたが無視してたよね。
>寺沢さんが卑弥呼墓=箸墓古墳と言ったなんて
誰も言ってない
ならばそれでいい。
二口かみあれた=庄内3=258年なら言えるわけがない、学者として誠実な態度だ。
>>887 >推論なのは何処まで言っても推論だけれど、「不確かな仮説の不合理な点」を
「具体的に」「客観的な根拠とともに」示さない限りは、「推論だから間違い」と
いう話にはならないww<
「南→東」などのような、確率が殆ど0%である大和説者の推論は、ほぼ間違いだ。
今日はこの人一人(おそらく類スレ主一人)で、
大和説のバカさぶりというのを、強調してるな
令和時代までにも、カニ星雲が出現したときのエネルギーが、引き続き奈良県の上空を直撃し、あるときは想像を絶する規模の空気シャワーを生み出し、大量の中性子が降り注ぎ、
奈良の地表付近で、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝しているキナイコシ達の脳を構成する炭素14原子の相当数が、中性子を捕獲し、別の物質に変換されている可能性が高いな。。。
>>237 >筑紫には、同じ大きさ位の前方後円墳は、他にもある。
あるの?
どこの、なんという古墳?
ウソつくと九州説が死ぬよ
>前方後円墳は、卑弥呼の冢ではないから、
理由は?
なんで九州説は理由を言わないの?
宗教だからだよね
>>240 だから、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝しているキナイコシ達は、知能に問題があるのだね。。。
NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、と高校生に教えていたな。。。
>>238 >以前、お前に森井、森岡編年とともにおまえに見せてたが無視してたよね。
証拠は?
またも捏造?
>>寺沢さんが卑弥呼墓=箸墓古墳と言ったなんて
>>誰も言ってない
>ならばそれでいい。
よくないだろう
お前はウソをついた
>二口かみあれた=庄内3=258年なら言えるわけがない、学者として誠実な態度だ。
だから、ガセネタでしょ?
証拠が出せないのたから
編年って科学的根拠が乏しい学者のオナニーなんでしょ?
並べ替えゲーム以外の意味はないんだってさ
NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、と高校生に教えていたな。。。
二口かみあれたは、白エビビーバーを販売している加賀温泉の近くの遺蹟なのではないのかな。。。
何度も書いているけど、ガンダムの話だろw
『カニ ガンダム』
邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。
>>129 >キナイコシが個人の考えを確定した事実であるかのように
>次の論拠とするから、砂上の楼閣のような畿内説ができあがる。
「個人の考え」というレッテル貼りをして、それだけで中身の検討もなく否定するのが
イデオロギー的なやり方だって言ってるんだよ
中身を批判できないから逃げてるだけだろ?
砂上の楼閣と言いたいなら、簡単に崩せるはずなんだから、
きちんと具体的な論拠を挙げて足元の砂を掘り崩して見せればいいのに
それはしないしできない
昨日から無駄に暴れている
>>129は無能な働き者だなww
それに何度も言っているように、九州説は素人の想像妄想の焼き直し・二次利用ばかりなのに対し、
ここで展開されている畿内説の説明は学術的な研究成果の紹介が中心になっている
前にも、民主主義が相対的に優れている理由として、
嘘を多数を短時間信じさせることと、少数を長時間信じさせることは簡単だが
多数を長い時間信じさせるのは真実でなければ難しいということがある
このスレでキーワードになっている「公知の情報」というのは、
多数が長い期間正しいと認めている事柄をいう
一方、九州説は典型的な少数を長期間うまく騙しているうそに当たる
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
>>244 以前、何度も見せた物を今、ジジオスティーズが廃止になって見れないから、
証拠がないなどと、まぁ卑怯な男だ。
寺沢さんが卑弥呼墓=箸墓古墳と言ってないでいいな、それだけ。
森井、森岡編年とも二口かみあれた=庄内3=258年。
以前見せたはずだが忘れたのかアホ。
>>130 >それをさも絶対年代のようにとらえて、卑弥呼の時代の奴国の首長墓が那珂八幡だとか断定して議論を進めるアホがいる。
そういって、具体的な反論をひとつもしないところが、卑怯で姑息な九州説の典型
>>131 >すると何かね、キナイコシによると那珂八幡の被葬者が兕馬觚だということになるのかね?
その可能性はあるけれど、那珂八幡古墳は葺き石・円筒埴輪・段築を持たない段階で
後円部も卑弥呼の遣使以降の魏朝からもたらされた測量技術を利用できるようになる前の
不整形の円形になっているから、むしろ兕馬觚の前代の可能性の方が高いけどな
「個人の考え」という評価は、中身の検討をしてもしなくても、それ以上でもそれ以下でもないので、レッテル貼りをすることはイデオロギー的なやり方でもないし、侮辱したことにもならないのではないのかな。。。
>>251 >きちんと具体的な論拠を挙げて足元の砂を掘り崩して見せればいいのに
とっくに崩れているのに、それに気がつかずに繰り返し書き込んでいるだけ。
>>156 >発狂してるな九州説
連続句読点、キウス、ザラゴキはいつも狂ってるよ
そして「個人の考え」連呼君は、いわゆる工作員レベルの人
反安部・日本下げ陣営の人だって、何の脈絡もなく自白してたからねww
あと、あまり来ないけれど半島南部投馬国の人も頭おかしい
佐賀川上バカの人も、魏志倭人伝原理主義をやめられれば話ができるんだけど
原理主義は本質が宗教だからなかなか改心できないんだよね
残念なことだ
>>251 >嘘を多数を短時間信じさせることと、少数を長時間信じさせることは簡単だが
畿内説は自分のことを語ることが多いよね。
>>157 >瀬戸内海が、干満による潮流が非常に速く、世界有数の難所であることから、
であるなら、出雲・投馬国経由の日本海ルートが本命なのは理の当然だな
個人の考えでしょうって言う返答は、一般的にわけわからない他人の説を聞くのが面倒な時に言われる言葉
あまりに荒唐無稽で反論の気が起きない時ね
>>258の補足
>>161の左側スロープ君もいつも狂ってるww
ガンダム、Gガンダム関係の作品なのかな
『河童 尻子玉』・・・作品(不明)もあったでしょ?
>>251 >このスレでキーワードになっている「公知の情報」というのは、
>多数が長い期間正しいと認めている事柄をいう
もしかして畿内説がそうだと思っている?
それほど古いものでもないし、多数が信じているわけでもない。
自分の周りの少数が世界の全てだと思っている?
>>253 >森井、森岡編年とも二口かみあれた=庄内3=258年。
>以前見せたはずだが忘れたのかアホ。
証拠は?
>>181みたいなのが「個人の考え」のみによる「作文」ってやつだろww
>>895 >>ほら、君が言う400メートルより短いだろ?<
>短くなる理由は、「漢土の外の情報の少ない土地の距離は誇張されるバイアスがかかる」と
いうのが「私の言うこと」の中身だよww<
これはもう何度も反論否定して来た事だ。
魏の役人たちは、皇帝に正確な情報を報告する事が仕事であり、
重臣たちの誰かに忖度して、部下や後続の使節や難升米らに拠って、
インチキをした事がバレれば、首が危ないから、彼らは忖度しないいし、実際に、
「余」を付けたり有効数字1桁程度の近似値化をしたりした事が、
計測があった事の証拠であり、
「略載」と書かれている事も元に計測値が存在した事の証拠である。
>>254 絶対年代を確定的に持ち出して論拠とするなということだよ。
具体的どれではなく、君の発言のほとんどすべてについての一般的な問題。
そこがクリアされていないから、このスレで君の発言はことごとく信用されていないの。
どこか一つではない。
あれもこれも、そもそもの方法論から誤っている。
理解した?
もう自分でも保たないの薄々気づいてるでしょ畿内説
小学生も騙せないよこれでは
>>182 >土器も同じだよな
>昔のデザインを200年後の時代に造ったとかあり得るもんな
その実例を、具体的に一つくらいは挙げないと、
何の意味もないただの勝手な個人の想像でしかないww
「須恵器の時代に弥生式土器の製法で土器を造った」という想定が
妥当性を持つとか考える人間がいることが驚きだわ
土器は消耗品で、長く使い続けられるものではないから、
比較的年代幅を限定して推定できるよい指標なんだよ
このスレではなく、
漫画やアニメ関係のスレに行かないとわからない事なのかな、
なぜか詳しい人がいたりしない?
>>897 こういうところで、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の書き込みバイトは、
政治的人種差別殺戮戦争的な背景があるって、自爆するんだよな
大和説が「反韓・反中・国粋皇国史観キョクウ殺戮戦争狂」だって、
自白していくスタイル。
現代でも全員が割れにくいセラミック食器を使っているわけではない。
祭器だとなかなか様式を変えなかったりするだろうしね。
立小便男は、礼儀は悪いが、人間性にはあまり問題が無い人物なので、嘘を言ってはいない可能性が高いが、
証明されていない、誰かの「個人の考え」による編年は、間違っている可能性が高いな。。。
>>206−
>>211がすべて連続句読点
長文コピペも大部分は連則句読点の仕業だよ
>>262 高天原に径百余歩の塚があるのだから仕方ない。
箸バカ古墳信者が哀れになるくらい由緒正しい場所。
まさに卑弥呼の墓にふさわしい。
>>215 >こちらがいくら話しかけても応答がおかしい
応答すると、矛盾を突きつけられて答えられなくなるから、
双方向のやり取りを避けて、一方的に個人の主張を書き付けるだけってのが九州説の基本
アンカをつけないとか、「>」を一つにしてリンクがつかないようにするとか
本当に姑息
>>908 ひょっとして「通説大和説学者の判断」というレッテルを貼れば
根拠なく否定できるって「勝手に個人的に判断」してるのか?
今日無駄な足掻きをしている大和説の人は?
おそらく類スレ主一人だけれど
二口かみあれたから発見された庄内3という物体と258年の年輪が、同じ地中にあったということが真実なのなら、
二口かみあれたも庄内3という物体も、258年より新しい時代にも、営まれていたり使用されていた可能性が高い、
ということだけが分かるのだったな。。。
>>216-
>>222の長文コピペ連投も連続句読点のしわざだよ
間に挟まってるのも含めて、アンカに乱れがない
長文コピペを連投していて間に他人が投稿を挟んできたら、
アンカがずれてしまうのが普通ww
こういうところのディテールを整えられないから、
いろんな荒らし手法を連続句読点が駆使していることがバレバレになるw
>>284 つまり、庄内3という物体は、4世紀にも使用されていた可能性が、高いのだね。。。
>282
自説が掲示板でシカトされてキレるようでは工作員どころかネット向いてないよw
歴史サークルのブログ等でよく見かけますね
謎の自説を主張してスルーされて発狂しているおじいちゃん
>>919 >が畿内に出ないのは北部九州と違い甕棺でない為に遺物が残らない故、とされます。
それなのに木のお面が残っていることの意義を評価されています。
木は残り人骨や絹は腐朽することについて科学的根拠を述べられるべきでしょう。
弥生の人骨の出土も甕棺と同様に、北部九州では人骨などが貝塚から多数出土しています。
畿内でも貝塚からの出土例との比較をされたらどうですか。
少なくとも、倭人伝に「銅鐸」が書かれていないことについての釈明を避けていて、
「強いて言えば近畿論に傾いている」という「科学的根拠」の説明は佐原真氏には全く見れないのです。
故人を誹謗するつもりはありませんが、無意識のうちに「近畿論から物を見る」視点が故佐原真氏の中に
存在していた、ということを示しているでしょう。 <
>>236 >知能に問題のない九州説の人に遭ってみたいものだ
知能に問題のない人は、十分な情報を見聞きすれば九州説は成立の余地がないことが
分かってしまうから、「知能に問題のない人」と「九州説の人」の積集合は
原理的に空集合になってしまうんだよ
だから、もう未来永劫会えないよ
30年以上前の情報の少ない時代ならいたんだけれどね
連続句読点は、誰が使用しても良いので、
>>216-
>>222の長文コピペ連投の人物や、その他の人物が、連続句読点を使用したこともあるかもしれないが、
頭の悪いキナイコシには、僕達とは、別の人物だということが、分からないのだな。。。
285日本@名無史さん2019/09/14(土) 14:11:27.08
>>216-
>>222の長文コピペ連投も連続句読点のしわざだよ
間に挟まってるのも含めて、アンカに乱れがない
長文コピペを連投していて間に他人が投稿を挟んできたら、
アンカがずれてしまうのが普通ww
こういうところのディテールを整えられないから、
いろんな荒らし手法を連続句読点が駆使していることがバレバレになるw
何かの余事象を、「特定の10個の箱」で説明すれば、良いのではないのかなw
289日本@名無史さん2019/09/14(土) 14:15:37.48
>>236 >知能に問題のない九州説の人に遭ってみたいものだ
知能に問題のない人は、十分な情報を見聞きすれば九州説は成立の余地がないことが
分かってしまうから、「知能に問題のない人」と「九州説の人」の積集合は
原理的に空集合になってしまうんだよ
だから、もう未来永劫会えないよ
30年以上前の情報の少ない時代ならいたんだけれどね
>>265
森井森岡編年。
箸墓248年という証拠の方が全くない。
>>953 >九州説が、逃げ回る自覚を持ったようだ<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
逃げ回るべし、という自覚を持ったようだ。
邪馬台国畿内説を宣伝する係員の奥山氏への弔辞を発表します。。。
奥山氏、今、僕達はあなたにお別れを告げようとしています。数分前、討論していた時はあんなに元気だったのに、、、突然、自殺体になろうとは、誰が予想できたでしょうか。
振り返ってみれば奥山氏と僕達との出会いは、5ちゃんねるの掲示板でした。偶然に僕達がスレッドを覗いた事がきっかけで、魏志倭人伝時代についての討論会で一緒に過ごしました。
奥山氏は、あの時からずっと変わらず卑劣な論敵でいてくれました。そして、奥山氏はいつも僕達に論破されましたね。。。僕達にとって奥山氏は、頭の悪さを楽しませて貰え、笑えてリラックスさせられる存在です。
奥山氏が頑張っているから、僕達が癒される、、、いつもそんな思いで生きてきました。
奥山氏、どうぞ安らかに眠ってください。また、天国であなたと討論できる日までお別れです。
奥山氏、本当に心よりありがとう。
何かのネタなのかな、このスレも同じ
梅(梅干し)が何やら〜みたいな話ばかりしていたり
>>258 >佐賀川上バカの人も、魏志倭人伝原理主義をやめられれば話ができるんだけど
おっ、佐賀川上バカを覚えていてくれるか、ありがたや、ありがたや。
末盧国東南500里の佐賀川上に伊都国、東百里の吉野ケ里に不彌国、と置けば、
万事きれいに解決する・・・。ま、九州の詐欺師に騙されたと思って地図に書き入れてみてくれ、ピタリだよ。
本当に調べてみたの?
たしかDr.スランプのネタだろう、
梅干し食べて〜Gガンダムに登場キャラクタ?
>>238 >二口かみあれた=庄内3=258年なら
これは、「二口かみあれた遺跡の年輪年代は正しい」という前提で
論を展開するんだなww
でも、畿内のほけの山古墳や池上曽根遺跡の年輪年代は、信じないとww
この辺でも読んでおきなよ
「畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開」
田中元浩
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/12/20/12_20_47/_pdf/-char/ja >>987 「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、
逃げるしか能のない大和説の悲惨
>>257 >とっくに崩れているのに、それに気がつかずに繰り返し書き込んでいるだけ。
だ・か・ら、具体的な論拠をあげて
具体的に崩れていることを示すような書き込みをしなさいww
それができないのに、ぐだ愚だ言うから
>>257はバカ丸出しって
昨日から何度も何度も繰り返し書かれているんだよww
バカだろ?ww
年輪年代というのは、ある物体の年代を決定する物事ではなく、ある物体が存在した年代に同時に使用されていた木が切り倒された年代しか分からないのだったな。。。
>>988 「南≠東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの指摘に対して、
具体的な反論の出来ない大和説の貧困
>>259 >畿内説は自分のことを語ることが多いよね。
九州説は常に自らに向けられた批判をミラーリングで書き換えて糊塗するだけww
考古学者、文献史学者ともに、「事実上全員という多数」が
「過去30年以上の長期間」畿内説を支持しているというのが現実
「少数を長期間騙している」というのは、九州説の現状そのものだが
畿内説にはあたらない
九州説の敵は、いつも真実であり現実w
>>303 木の芯に近い部分だけを、材料として切り出すこともあるので、切り倒された年代より、100年以上前の年代で計測されてしまうことも多いのだったね。。。
倭国乱れて大騒動で、やっとこさ女王卑弥呼の共立に持ち込んだ。
ところが今度は、南の方で狗奴国の反乱が続き、帯方郡に軍師の派遣を願い出るしまつ。
悪い時には悪いことが重なるもので、卑弥呼が急死して大急ぎで墓をつくり、
葬式が済んで、やれやれ後継ぎに男王が立とうとしたら、又もや倭国乱れててんやわんや。
そんな不安定な時代に箸墓なぞ作ってるヒマなかろうが、、。まして女王の権力基盤が定まっていたなどとバカもたいがい
>>305 >考古学者、文献史学者ともに、「事実上全員という多数」が
これこそ詭弁だな
邪馬台国の研究者などほとんどいないんだよ
その他の時代の研究者が、あまり深く考えず
学閥政治のバランスを見て畿内説を支持してるだけ
>>306 つまり、年輪年代法を、年輪と同時あった物体の年代を知る方法として、そのまま適用してしまうと、100年から200年の誤差がある可能性が、そうではない可能性よりも高いのだったな。。。
>>261 >あまりに荒唐無稽で反論の気が起きない時ね
荒唐無稽なら、ほんの一言二言で簡単に否定できるぞ
例えばザラゴキの「プラズマ化するとベータ崩壊が促進する」なんていう荒唐無稽は
電子・電界は弱い相互作用・ウイークボソンと相互作用しない、とたったこれだけで
具体的かつ完全に否定できる
それをしない、できない時点で、議論・ディベートとしては、
>>261の完敗だよ
具体的な反論ができるなら相手をするよとこちらが言っているのに逃げ続けるだけww
具体論に入った瞬間に否定されるから逃げ続けるだけの、
卑怯で姑息なやり方しかできないのが九州説
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだな。。。
>>264 >それほど古いものでもないし、多数が信じているわけでもない。
1980年代後半、遅くとも1990年代以降ずっとというのは、
学問の世界では十分に長期間だぞ
そして、この一連の畿内説スレでも何度も話題になっているが、
現役の研究者(≠研究家)で九州説支持者の名前が一人も挙がらないくらい
畿内説が絶対多数になっている
長期間、多数が正しいと認めているのが畿内説
NHKが、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が無い、と高校生に教えていたな。。。
邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。
>>269 >絶対年代を確定的に持ち出して論拠とするなということだよ。
十分に幅を持って示しているよ?
確定はしないから当然だろ?
古墳時代草創期の開始は、纏向石塚古墳の年代が一つの指標になるが、
「二世紀末から三世紀初頭の間」という幅を持たせた確定的ではない表現で
ずっと示してきている
そして、この下限の三世紀初頭であっても、卑弥呼の遣使のずっと前に
古墳時代草創期が始まっていることは確実
こういう具体論に踏み込まずに逃げ続けるから、
>>269は無能でバカ丸出しなんだよ
>>315 令和時代になってからの放送だったね。。。
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
>>989 >畿内説の主張は、<
畿内なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
>前方後円墳祭祀と祭祀用供献土器が3世紀に
纏向遺跡で初現ののちに列島の広い範囲に広がっていくという「歴史の流れ」を
根拠にしている<
卑弥呼の「冢」が3世紀前半末であり、筑紫の庄内も3世紀前半に始まり、
筑紫の前方後円墳は、那珂八幡などの3世紀後半半ば過ぎからであり、
それに対して、大和の前方後円墳や庄内は、3世紀末の石塚からであるから、
類スレ主の投稿は、×である。
「二世紀末から三世紀初頭の間」という表現は、確定的な幅を持たせてしまった、間違った可能性が、そうではない可能性よりも、高い表現だな。。。
>>287 >>282
>自説が掲示板でシカトされてキレるようでは工作員どころかネット向いてないよw
この「>」一個でアンカーリンクを避けるところが、
姑息で卑怯という表現にそのまま合致するww
>>282を読んで「キレて」いるように見えるってのは、相当に追い詰められてるねww
古墳時代草創期の開始の時期は、NHKが高校生に教えていたな。。。
>>308 >邪馬台国の研究者などほとんどいないんだよ
既に、畿内説で決着しているから、邪馬台国を研究している人はいないよ
そして、それぞれの研究分野、研究対象についての論文をすべて
邪馬台国畿内説を前提にして書いてる
とにかくごまかそうとする姑息な九州説が
>>308ww
>>324 NHKの表現では、「3世紀後半には、「古墳」が出現した」のだったな。。。
つまり、「二世紀末から三世紀初頭の間」という表現は、NHKは認めてはいないのだね。。。
>>325 >既に、畿内説で決着しているから、邪馬台国を研究している人はいないよ
それは嘘
間違い
邪馬台国は魏志倭人伝くらいにしか出てきてないので研究のしようがない
だから専門に研究する人がいないんだよ
姑息なのはお前だよ
一番古い古墳が出現した地点は、纏向ではない可能性の方が、高いな。。。
>>326 奧山氏が、確定的に発表している意見は、NHKが発表している広く日本人に通用する常識とは、かけ離れているな。。。
後方不敗?
どう考えても『河童 尻子玉』でしょ
ほとんど老婆談なんだけど、相撲の話もしていたしな、
歌舞伎、芝居が〜とか
一番古い古墳が出現した地点は、纏向ではない可能性の方が、高いな。。。
>>109の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)_▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│↓「陸行1月」(幻).│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」 NHKは、高校生たちに、色々な種類の古墳があると教えていたな。。。
『にんげんっていいな』
本当に、ほとんど同じでしょ、あの写真なども有名なのかな?
キュウリのような葉・・・、かみたま?
>>258 >佐賀川上バカの人も、魏志倭人伝原理主義をやめられれば話ができるんだけど
おっ、佐賀川上バカを覚えていてくれるか、ありがたいことだ。
末盧国東南500里の佐賀川上に伊都国、東百里の吉野ケ里に不彌国、と置けば、
万事、美しく解決する・・・。ま、九州の原理主義詐欺師に騙されたと思って地図に書き入れてみてくれ、ピタリだよ。
天皇が発見したという手蔓藻蔓は、どのような手蔓藻蔓なのだろうか。。。
>>269 >絶対年代を確定的に持ち出して論拠とするなということだよ。
具体的な反論をまったくせずに考古学完全否定というこの暴論、笑えるね
これ、まさに
「個人の考えを確定した事実であるかのように次の論拠」
にした「砂上の楼閣」の九州説だな
『後方不敗』
何なのか知らないけど、あの写真・・・?
有名(有名人)なのかな
知っている人は知っていると思うんだけど、
サ□シ・・・?もれ(仮)と同じ名前だしw
弟(次男、二男)だと言っている人がいたり
それとも、もれ(仮)の父親のことなのかな?
父親も二男、次男だしな
勝〜〜〜〜義?
このような名前、仏教のような感じがするし・・・w
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだな。。。
>>103 >古墳のような巨大モニュメント=見える権力・見せる権力は、
王都周辺または王都への街道沿いに作られる
列島最大の墳丘墓の所在地が王都近辺であるのは確定
古墳造営の人を食べさせるだけの経済力があるのも王都周辺だ
古墳造営キャンプなどという意味のない造語を捏ねくり回したところで
そこが王都近辺であることは動かない<
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」によって、倭國王都は北部九州にあったのであり、
大和は、その倭國から別れた別種の旧小国であり、
更に倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」で支配された一国であり、
また「南≠東」である事も伏せているから、
類スレ主?は、×。
『何者にもなれない お前たち』
馬に乗り・・・wという話と同じだしな、
謎の刀を持っていたとか、誰かの本名?
邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。
>>108 >磯城と纒向は一体の地だから、崇神天皇から3代の都が纒向と見ればいい
>崇神、垂仁、景行が邪馬台国の指導者ってだけ
崇神と垂仁は佐治国の男弟と官筆頭の伊支馬として魏志倭人伝にも記載されている<
「南≠東」などに拠って、類スレ主は、×。
絶対年代の手がかりを、黒い箱や、日韓の黄砂や、空気シャワーが命中した桃の種にしてしまったのではないのかな。。
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
最近明らかにされてきた空気シャワーの威力や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
電気、発電が〜という話もしていたしな・・・、
何かのネタ?
>>113 >こうやって編年研究を無視した寝言に走るから、九州説は学説として成立し得ない
纒向石塚古墳は2世紀末から3世紀初頭<
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ大和説学者らの「編年」など、
信頼性が全くなく、
石塚は、撥型前方後円墳であるから、卑弥呼の「冢」ではなくその後であり、更に、
くびれ部滑らかな前方後円墳で3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡よりも、更に後であるから、
3世紀末になり、
「2世紀末から3世紀初頭」説は、×。
>>293 >森井森岡編年。
>箸墓248年という証拠の方が全くない。
だから、その
「森井森岡編年」なるものを見せてごらん
出せないでしょ?
デマだからだよ
>>327 >邪馬台国は魏志倭人伝くらいにしか出てきてないので研究のしようがない
>だから専門に研究する人がいないんだよ
また嘘ついてるww
情報が少ないなりに、昔は邪馬台国で論文が書けたんだよ
内藤湖南(畿内説)と白鳥庫吉(九州説)の論争は、
邪馬台国の研究じゃなかったって言いたいのかな?ww
今では決着済みだから、邪馬台国で論文を書く専門の研究者はいないけれど
それぞれの研究分野の論文を書く時にはヤマトが中心というのが既に前提となっている
こんな感じでね
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木 憲一
より引用
>姑息なのはお前だよ
インチキごまかしをしているのがお前だってのは
きちんと具体的な根拠を付けて示せるんだよ
本当にごまかししかしない、無能がww
年輪年代法だけではなく、埋まっていた土器の様式も、絶対年代の新しい方の可能性に対しては、何の証拠にもならないので、纏向石塚は4世紀に出現した可能性もあるのだったな。。。
昔の話を懐かしんでも、破綻した邪馬台国畿内説が復活する可能性は、殆ど無いのではないのかな。。。
355日本@名無史さん2019/09/14(土) 16:42:47.36
>>327 >邪馬台国は魏志倭人伝くらいにしか出てきてないので研究のしようがない
>だから専門に研究する人がいないんだよ
また嘘ついてるww
情報が少ないなりに、昔は邪馬台国で論文が書けたんだよ
内藤湖南(畿内説)と白鳥庫吉(九州説)の論争は、
邪馬台国の研究じゃなかったって言いたいのかな?ww
今では決着済みだから、邪馬台国で論文を書く専門の研究者はいないけれど
それぞれの研究分野の論文を書く時にはヤマトが中心というのが既に前提となっている
こんな感じでね
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木 憲一
より引用
勝〜?の父親は長男だしな、
その前も長男だと言っていたし・・・、何なんだろう
>>275 >以前見せた森井、森岡編年
口先で「見せた」と言うだけで
絶対に見せようとしない
この詐欺師
クズ説はインチキに始まりインチキに終わる
>>355 だから、
昔そうやって争ったけど決着がつかずに両方とも他界したわけだよ
死ぬまで争って決着がつかなかったのに
それ以降新たな証拠も何も出てこないのだから決着がつくわけがない
だから研究者も減ってるんだよ
つまり、邪馬台国畿内説は完全に破綻したのだね。。。
なんかさ、反論係の人、郷土史家のおじいちゃんに変わったのかな?
もう「こっちが権威のある説だ」「根拠は?」しか連投してないじゃん。
頭悪い上に頭が固くて、対処に困る感じだわ
まあウソの主張しか出来ないような分野を研究したい人おらんよな
>>362 ほかならぬ自分の主張の
根拠を頑として言おうとしない
九州説は異常だよ
なるほど、、、
立小便男の言っていることは、嘘ではないのだな。。。
森岡氏は「卑弥呼の謎 年輪の証言」講談社、森井氏は「卑弥呼誕生」東京美術で、それぞれ、二口かみあれた=庄内3=258年という発表をしているね。
そして、その研究のソースは有名な大河内隆之氏の先生なのだね。。。
なぜか川俣町というところの話もしているし、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
>>364 ここは畿内説のスレなのですから自分の主張は自分で一般人にわかるように証明しましょう
出来ないのなら君の説がそもそも成立しないということ
>>365 森岡氏は、畿内Yという、布留式の直前の段階に充てているな。。。
銀〜という親戚もいたとか、
天草伝説と同じだしな・・・・・・。
上の名前は天草ではないんだけど、誰かの本名?
>>365 立小便男の言っていることは、嘘ではないが、森岡氏も森井氏も、絶対年代の証拠を示していないな。。
そして、年輪年代法だけではなく、埋まっていた土器の様式も、絶対年代の新しい方の可能性に対しては、何の証拠にもならないのだったな。。。
有名な大河内隆之氏は、先生の研究を裏付ける研究結果を発表したのだったね。。。
>>269 >絶対年代を確定的に持ち出して論拠とするなということだよ。
だからそれは
>>253みたいな
出所不明の謎の絶対編年をふりまわして
畿内説を否定しようとしてるトンデモのことだろ
>>103 >王都周辺または王都への街道沿いに作られる
それは仮説に過ぎない。
立小便男の言っていることは、嘘ではないが、森岡氏も森井氏も、絶対年代の証拠を示していないな。。
そして、年輪年代法だけではなく、埋まっていた土器の様式も、絶対年代の新しい方の可能性に対しては、何の証拠にもならないのだが、
小便男の言っていることが嘘ではないことは、「卑弥呼の謎 年輪の証言」講談社、「卑弥呼誕生」東京美術で、確かめられることを教えてあげても、朝鮮人のプロ固定は無視するしかないのだな。。。
372日本@名無史さん2019/09/14(土) 17:14:08.42
>>269 >絶対年代を確定的に持ち出して論拠とするなということだよ。
だからそれは
>>253みたいな
出所不明の謎の絶対編年をふりまわして
畿内説を否定しようとしてるトンデモのことだろ
>>134 >この古地図には、現代の地図とは90度回転して日本列島が記載されている
もしかして魏志倭人伝の筆者も、この地図のように日本列島を認識していいたとしたら
邪馬台国にいたる道程を東西南北の方向が90度回転していたのではないかな
そうだとすると 近畿説で正解。<
ダメだ。
3世紀には魏の役人らが来て実地に見聞計測記録しており、
7世紀には裴清や郭務ソウらも実地に倭地に来て報告しているのだから、
東西南北も間違える筈がない。
そして、後代に、(実地に倭地に来て確認せずに)推定で書いただけの地図は、
信頼性が非常に落ちて、基本的な根拠には全くならない。
要するに、この男も、他の大和説学者らと同じく、
史料批判をきちんとせずに、都合の良い部分だけをチェリーピッキングした、
・・・・アホ詐欺師。
『梅干し食べて スッパマン』(後方不敗)同じネタでしょ?
また、頭の悪い者が犯してしまう勘違いをしているな。。。
378日本@名無史さん2019/09/14(土) 17:20:54.73
連句読点の正体バレた
>>298 >>佐賀川上バカの人も、魏志倭人伝原理主義をやめられれば話ができるんだけど
あれはあれで困りものだが、魏志倭人伝に忠実であろうとする態度はまだ評価できる。
畿内説よりはマシ。
川上は壹與の都だよ。
>>381 正体も何も、僕達は、僕達でしかないのだったな。。。
老婆の話によると『落雁』
供えるものも作っていたと言っていたり、
当時結婚した人の家で作っていたとか
確実に『河童 尻子玉』(後方不敗)
奧山氏が、孤軍奮闘しているが、邪馬台国畿内説はもう復活できないのではないのかな。。。
これもガンダム関係の話
『ガーベラ』(後方不敗)?何の話なんだろう
>>360 >それ以降新たな証拠も何も出てこないのだから決着がつくわけがない
詭弁使いの常道
勝ち目のないときは「どっちもどっちで引き分け」という印象操作をするww
編年研究の進展、新しい遺跡遺物の発掘成果という、新しい材料が大量に追加された結果
邪馬台国論争はプロの間ではとっくの昔に決着してるんだよ
アマチュアで、新しい情報を受け入れられない情報リテラシーの低い一部の人が、
「認められないにだー」って言い張っているだけなのが現状ww
>>374 >それは仮説に過ぎない。
仮説の正否を問うのでなければ無意味だっての
反論したかったら反証となる具体例を挙げればいいんだから簡単だろ?
仮説だからというのは、反論として何の意味も持たない
>>374は具体論に踏み込むことをとことん避けるクズ野郎ww
前にエジプトのピラミッドは砂漠の中で王都近くじゃないとか言って
自爆したバカもいるけどな
むかーしからなのかな?
馬鹿にされすぎだろうwwwと言っている人がいたり
あと、どのスレだったかな
日本の話なんですよwという書き込みとか
>>382 >あれはあれで困りものだが、魏志倭人伝に忠実であろうとする態度はまだ評価できる。
忠実なのではなくて、原理主義で現実を魏志倭人伝に合わせようと
する本末転倒なことを指向している
>川上は壹與の都だよ。
これなんかは、「仮説」以前の「根拠なしの妄想」だ
こういうのを断定的に書くのが九州説ww
>>154 「南→東」などの嘘付き騙しのように、
大和説者は、歴史を、
「史料事実を、史料批判をせずに根底から否定破壊する」
という事をしないと、存在し得ない
邪馬台国畿内説が、完全に、破綻してしまい、スレッドが寂れてしまったな。。。
>>156 「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘付き騙しのように、
大和説者らは発狂してるな。
>>393 出発方向が東南なら伊都国は北東でもいいと言い張るトンデモに比べたら詐欺成分少なくて吉
>>161 >卑弥呼(Bei mei hu)=比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉こと
ヒメ(踏鞴五十鈴)后は葛城にいた。<
「南≠東」などに拠って、×。
>>394 九州説は史料批判ってなんだか解ってないだろ
我々がやってるのが史料批判だ
>>169 >九州説の人の書いた「具体的な」反論って、どこにあるの?
具体的に教えてね <
「南≠東」など。
>>382 >あれはあれで困りものだが、魏志倭人伝に忠実であろうとする態度はまだ評価できる。
>畿内説よりはマシ。
>川上は壹與の都だよ。
倭人伝の通り、卑弥呼の時代には肥後熊本に女王の都があったとしても、
次の壹與の時代には、帯方郡との往来実績のあった佐賀川上の伊都国に都を移したということは大いに有り得るねえ。
>>400 それ、具体的じゃなくて
単なる教条だから
本当の話
宗教団体の話と同じ、
乗っ取られたりしたのかな?
材木の話もしていたしな、
いま住んでいる家は・・・とか
>>359 yahooジオスティーズ「土器の編年」というサイトにあった。
お前も何回も見ながら今は見れないものをなかったってアホなのか。
見たことを忘れてるのはお前がバカだからか痴呆が始まってるからだ。
老婆の知り合い、親戚?それとも家なのかな・・・?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜、
知り合いがいて、そこの木を使用したとか
>>401 >倭人伝の通り、卑弥呼の時代には肥後熊本に女王の都があったとしても、
だから、そこにも佐賀川上にも、邪馬臺の地名も遺跡もないって
何度言ったら理解できるんだ?
地名はともかくとしても、遺跡が発掘されてからもう一度来てくれ
それまでは来なくていいよ
箸墓が卑弥呼の墓という根拠は円墳部分が径百余歩におおよそ合致するというその一点だけ。
あとはもう時代も合わないし、円墳先作りでもないし、卑弥呼が誰なのかも言えないし、
実にぶざまな説になり下がった。
川上は 伊代ちゃんの都だった可能性が出てきたのではないかな。。。
自分が証拠が出せないことをわかってて
それでも言い張ってる
>>405が
異常なんでは?
>>407 みなさ〜ん、畿内の遺跡原理主義者 ですよ〜〜ん
>>411 えっと纏向石塚がAD177+18というのは覚えてるか?
もちろん森井さん森岡さんもそのように編年していた。
そのなかに二口かみあれた258年もあったわけだが、
君は都合の悪いことはすっかり忘れるタイプのようだな。
>>409 >箸墓が卑弥呼の墓という根拠は円墳部分が径百余歩におおよそ合致するというその一点だけ。
>あとはもう時代も合わないし、円墳先作りでもないし、卑弥呼が誰なのかも言えないし、
ウソばっかし
「箸墓=卑弥呼の墓」説は
時代が合うことと
各地の墓制を統合してる(共立のあらわれ)こと
工事が円丘先行な可能性が高いこと
女性の墓という伝承があること
卑弥呼がモモソヒメのモデル説の説得力
などなど根拠はたくさん山盛りだ
>>413 >そのなかに二口かみあれた258年もあったわけだが、
はい、証拠だしてね詐欺師さん
>>414 それで、臺與の墓はどこだ。これも女性の墓という伝説があるのだろうな。
>>409 >箸墓が卑弥呼の墓という根拠は円墳部分が径百余歩におおよそ合致するというその一点だけ。
それがそもそもの認識の誤り
最大の根拠は、それまでの列島上のいかなる墳丘墓からも隔絶した
画期となる巨大墳墓だからなんだよ
新しい王権の始祖王の墓、以外の説明は難しい
>あとはもう時代も合わないし、
合わないと思っているのは九州説だけ、標準編年で造墓に10年程度を見込めば
まさにぴったりといってよいくらいに合致する
>円墳先作りでもないし、
円丘先造なのはほぼ確実
テンプレにも詳しく書いてある
>>25 FAQ23を参照
まあ、それ以上に「後円部が墓と認識されていた」で十分だろう

明治9年撮影
>卑弥呼が誰なのかも言えないし、
纏向遺跡が、崇神・垂仁・景行の宮処だと考えられるのだから、その頃の
ヒメ王と考えられる皇女を想定すればよい
倭迹迹日百襲姫命で特段の問題はない
>実にぶざまな説になり下がった。
意味のない文句を書き付けるだけの九州説は無様で惨めだな
「個人の考え」連呼君は、反論の体をなしていないことに気づいたんだろうか?
まあ、反安部・反日の工作員さんみたいだから、懲りずに続けるんだろうなww
>>414 >「箸墓=卑弥呼の墓」説は
時代が合うことと
強引に建造開始を3世紀中ころにして、
高齢の女王が死んで慌てて完成まで10年の墓を作りましたってか?
ドアホ。
>各地の墓制を統合してる(共立のあらわれ)こと
2世紀前半からはつづく男王の王権が2世紀末に女王を擁立して、相対してた側が納得しただけ。
あくまで主語は「2世紀前半の男王の王権が」であって「各地の首長が」「ではない、ごまかすな。
>工事が円丘先行な可能性が高いこと
誰がそんな都合の良いこと言ってるんだ。
>女性の墓という伝承があること
>卑弥呼がモモソヒメのモデル説の説得力
ならばモモソヒメと言い切れ。
言った時点で時代的に撃沈だろ。
>>418
そもそも、卑弥呼のような大王墓は奈良盆地のような平地の湿地帯なんぞに築かない。
ましてや、前方後円墳など何をか言わんや。 @阿波 箸墓も西殿塚も、2013年の立ち入り調査以降、肯定発言をする調査関係者無し。
ネタ間違い!
>>419 反論は必要ないよ。主張する側が証明すればいいだけ。
あと、ここはいろいろな立場の人が書き込んでいるから、右翼とか左翼のレッテル貼りは意味ないよ
私なんかは嫌韓板にもたまーに書き込むし笑
少なくとも初期の天皇陵は、山の尾根や丘を利用して築かれた。
初代〜第五代天皇の陵墓の記事(『古事記』『日本書紀』『延喜式』)には
まず神武陵が畝火山の北方白檮尾上、綏靖陵は衝田岡、懿徳陵は畝火山の真名子谷上、孝昭陵は掖上の博多山上とあるように、
初期の天皇陵は、 山の尾根や自然の丘陵の一部を利用して築かれている。 @阿波
>>422 >箸墓も西殿塚も、2013年の立ち入り調査以降、肯定発言をする調査関係者無し。
証拠は?
>>418 >新しい王権の始祖王の墓、以外の説明は難しい
となると、崇神のほうがピッタリじゃないの
>>418 >纏向遺跡が、崇神・垂仁・景行の宮処だと考えられるのだから、その頃の
ヒメ王と考えられる皇女を想定すればよい
倭迹迹日百襲姫命で特段の問題はない
そうすると君は崇神が2世紀末だといううわけか。トンデモな年代観だな。
崇神は行灯山で問題なし、時代は4世紀前半。
>最大の根拠は、それまでの列島上のいかなる墳丘墓からも隔絶した
画期となる巨大墳墓だからなんだよ
無理、大きさは関係なし。
被葬者の埋葬場所の高さ、言い換えれば「気高さ」が問題。
箸墓ごとき瀬戸内下人の墓は標高435mの高天原にはかなわない。
>>423 >反論は必要ないよ。主張する側が証明すればいいだけ。
お前は「畿内説でも九州説でもない」とのたまわっていたんじゃなかったっけ?
そして、自分の主張はゼロで「個人の考え」は「仮説」だから〜しか言ってない
>私なんかは嫌韓板にもたまーに書き込むし笑
嫌韓板まで行って、韓国擁護論を書いてくるんだろ?
ウソは言ってないなww
>>418
そもそも、卑弥呼のような大王墓は奈良盆地のような平地の湿地帯なんぞに築かない。
ましてや、前方後円墳など何をか言わんや。 @阿波 >>420 >ならばモモソヒメと言い切れ。
なんで卑弥呼がモモソヒメのモデルだというと
モモソヒメと言い切らんといかんの?
どういう論理?
その思考が理解出来ない
それとも、ただの駄々コネ?
少なくとも初期の天皇陵は、山の尾根や丘を利用して築かれた。
初代〜第五代天皇の陵墓の記事(『古事記』『日本書紀』『延喜式』)には
まず神武陵が畝火山の北方白檮尾上、綏靖陵は衝田岡、懿徳陵は畝火山の真名子谷上、孝昭陵は掖上の博多山上とあるように、
初期の天皇陵は、 山の尾根や自然の丘陵の一部を利用して築かれている。 @阿波
>>425 ない発言録は出せない。
肯定発言があるなら出してくれ。よく読んでみよう。
>>430 モモソヒメなのか、モモソヒメではないのかどっち?
上の方でモモソヒメで問題はないと出てるが。
>>430 >それとも、ただの駄々コネ?
そりゃ、ご自分にぴったりの言葉だよ、畿内の駄々こね君!
>そもそも、卑弥呼のような大王墓は奈良盆地のような平地の湿地帯なんぞに築かない。
>ましてや、前方後円墳など何をか言わんや。 @阿波
訂正
そもそも、卑弥呼のような大王墓は纏向のような平地の湿地帯なんぞに築かない。
ましてや、前方後円墳など何をか言わんや。 @葛城 w
証拠出せないとわかってること主張する
>>432は
あたまヘン
>>428 誰と戦っているんだ?
掲示板で戦ってる相手が一人に見える病気だね?w
君、邪馬台国以前に議論のセンスがないわ
おじいちゃんで脳が回らないんだろうね
>>420 >強引に建造開始を3世紀中ころにして、
全然強引じゃないよ?
九州での大陸からの渡来遺物を定点とした土器編年を基準に
14C年代など理化学的方法を組み合わせて矛盾なく説明できているから
>高齢の女王が死んで慌てて完成まで10年の墓を作りましたってか?
慌ててないよ?
粛々と大墳丘墓を作っているだけ
もがりの期間がなぜ必要なんだと思ってるんだ?
>ドアホ。
余裕がなくなると罵声に走るww
知性の低い人はこれだからww
>>435 九州説がまた幼稚園児程度の発言してるね
オウム返しするのは、おばかの証拠だよ
>>437 なんだ、おまい肯定発言の証拠出せないのか、、、
>>434 >上の方でモモソヒメで問題はないと出てるが。
その理由は?
>>420 >2世紀前半からはつづく男王の王権が2世紀末に女王を擁立して、相対してた側が納得しただけ。
>あくまで主語は「2世紀前半の男王の王権が」であって「各地の首長が」「ではない、ごまかすな。
あれれー? おかしいなー?
三世紀時点では統一王権はなくて、各地で分立状態だったっていうのが九州説の言い分じゃなかったっけ?ww
ご都合主義がすごいなww
>>434 >モモソヒメなのか、モモソヒメではないのかどっち?
モモソヒメのモデルだと主張してる人に
モモソヒメそのものだと主張を変えろと強要する
理由はなんなの?
>>440 おバカには、おバカのオウム返して上等以上。
>>443 だからここは九州説だけでなく色んな人がいるのよ
勝手に特定の説と戦ってないで早く自説を証明してくださいよ
>>420 >誰がそんな都合の良いこと言ってるんだ。
テンプレのFAQ23に、根拠がきちんと具体的に書いてあるから、
反論したいなら具体的に反論しなさい
>ならばモモソヒメと言い切れ。
>言った時点で時代的に撃沈だろ。
記紀は編纂された時代が新しすぎるから3世紀の事柄の典拠とするのは
最初から無理がある
そして、倭迹迹日百襲姫命は、崇神紀に記載されているから、
纏向遺跡の時代でまったく問題ないぞww
>>441 >なんだ、おまい肯定発言の証拠出せないのか、、、
イミフな文章だな
肯定発言とは誰が書いた何番だ?
>>441は知能が異常に低い人のカキコに見えるんだが
>>426 >となると、崇神のほうがピッタリじゃないの
実際、崇神の陵だと考える人もいるよ
まあ、記紀の箸墓の造墓記事をどこまで重視するかっていう程度のことだけれどね
個人的には、卑弥呼と崇神が姉・弟のヒメヒコ制で
二人セットで始祖王だったでいいと思うけれど
>>427 >そうすると君は崇神が2世紀末だといううわけか。トンデモな年代観だな。
なぜそうなる?
崇神の年代は、纏向の年代に合わせればいいだけだぞ?
>>427 >無理、大きさは関係なし。
>被葬者の埋葬場所の高さ、言い換えれば「気高さ」が問題。
ああ、ごめん 左側スロープ君じゃないかww
相手をして悪かったね
早く巣に帰れよ!
>>445 このレス、おばかの典型だな
園児がよくやるやつ
>>439 >14C年代など理化学的方法を組み合わせて矛盾なく説明できているから
14C年代で20年幅なんてわかるわけないだろ。
だから俺は年輪年代の二口かみあれた258年=庄内3を言ってるのに、
お前は逃げ回ってるわけだ。
>>446 自説って?
ここは畿内説のスレだよ
ほまくらの「自説」なら畿内説だ
>>446 >勝手に特定の説と戦ってないで早く自説を証明してくださいよ
それブーメランだろ?
「俺の自説」ってどれのつもりで言ってるんだ?
畿内説の基本はテンプレにきちんと書いてあるぞww
畿内説は、細部で意見の違いはあるが大筋はテンプレと同じ
>>450 >なぜそうなる?
>崇神の年代は、纏向の年代に合わせればいいだけだぞ?
だから纏向は2世紀末からだろ。
それが崇神だというのがお前のアホ理論。
>>453 >だから俺は年輪年代の二口かみあれた258年=庄内3を言ってるのに、
その「年輪年代の二口かみあれた258年=庄内3」って
どっから湧いた?
根拠出せない詐欺師くん、まだ言い張るの?
>>455
>畿内説は、細部で意見の違いはあるが大筋はテンプレと同じ
碌な集落遺跡や鍛冶炉遺構や資源の無い畿内に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>453 >14C年代で20年幅なんてわかるわけないだろ。
だから、14C年代だけで決めてるんじゃないってww
土器様式の変遷は、作っている人の代替わりで様式が変わると考える(自然な想定)と
一様式20〜30年程度となるし、現在の編年もその程度になっている
>年輪年代の二口かみあれた258年=庄内3
年輪年代法を信じるなら、ホケノ山の年輪年代を信じればいいだろ?
それで解決だ
>>449 >個人的には、卑弥呼と崇神が姉・弟のヒメヒコ制で
>二人セットで始祖王だったでいいと思うけれど
応神が百済王統のアケ王擁立から、あるいは須恵器に編年からも390年元年はガチ。
ならば崇神はその3世代ほど前、まぁ4世紀前半。
それは各豪族の系図からもわかる。和邇氏に至っては2世代前。
その崇神が2世紀末から3世紀初頭になる事はない。
>>459 >ホケノ山の年輪年代
そんなんあったっけ?
年輪年代で3世紀前半の勝山ではなくて?
碌な集落遺跡や鍛冶炉遺構や資源の無い畿内に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波
>>456 >だから纏向は2世紀末からだろ。
>それが崇神だというのがお前のアホ理論。
2世紀末は纏向遺跡の建設開始年代だ
なぜ崇神が、纏向遺跡の建設開始と同時に死ななきゃいけないんだ?ww
崇神は卑弥呼の末弟だから、卑弥呼の死248年よりもあとに死んでるぞ
>>457 >その「年輪年代の二口かみあれた258年=庄内3」って
どっから湧いた?
だから森井、森岡編年だと言ってるだろうが、このハゲ。
>>456 ああごめん、これも左側スロープ君だ
相手をして悪かったね
自分の巣に早く帰れよ!
>>463 ならば纏向石塚を誰の墓だと考えてるのか。
あと崇神の墓はどれなんだ。
俺は崇神の墓を4世紀前半の行灯山と考える。
古事記の記述にも合う。
>>460 >それは各豪族の系図からもわかる。和邇氏に至っては2世代前。
それ、和邇氏の系図に抜けがあるだけ
『後方不敗』
グーグルで検索してみた?画像?
どう考えても日本(後の日本?)の話
>>467 そうだとしても3世代。
だいたい福島の会津に前方後円墳ができるのが4世紀になってから。
崇神時代の四道将軍ゆかりと考える以外にない。
あと稲荷山鉄剣のヲワケさんの7世代前がオオヒコ。
これも4世紀前半になる。
従って崇神は4世紀前半。
>>185 >年輪年代ね。 纏向石塚がAD177*18 <
年輪年代には、まだいくつか問題がある。
一つは、やはり、基準材の生育環境の年次変化と、
検体材(この場合はヒノキ?)の生育環境の年次変化との同一性が保証されるのか?、
という点。
特に冬の積雪の有無や、年平均気温や日照時間の年次差異。
また、伐採年から材として使用するまでの年次の長短が問題。
柱としての使用では、ある程度伐採直後や短期間内に使用された可能性が十分あるが、
板としての使用では、当然、伐採から使用まで、何年か?の「寝かせ」期間や、
他所での柱などとしての使用期間がある筈であり、その年数が全く不明。
勿論、樹皮から板の最外端までの年数(この場合は18年らしい)も推定しなければならない。
また、墓の板としての使用の場合などでも、鉄器が十分になければ、
綺麗に削るのにまた年数がかかってしまう可能性もある。
いずれにしても、177+18=195(年)だとしても、
50年位以上寝かせてしまう可能性もあり、
また、卑弥呼の墓とするのは、「冢≠前方後円墳」という問題があるために、×。
『蒼狗』(フェンリル〜?)
『伊達の桃太郎』とかそういう話でしょ、
なぜ詳しいんだろう、未来から来たのかな
小椋〜(不明)の曲なども聴いてみた?同じような曲があったり
>>401 河上神社に淀姫様がいらっしゃるからだよ。
有名な大河内隆之氏は、上司の研究を裏付ける研究結果を発表したのだったね。。。
>>470 >年輪年代には、まだいくつか問題がある。
中塚武教授の酸素同位体比を使った新しい年輪年代法とも合うらしいよ。
年輪年代は100年古く出るとか言ってた人は撃沈w
天皇が発見したという手蔓藻蔓は、どのような手蔓藻蔓なのだろうか。。
>>427 >崇神は行灯山で問題なし、時代は4世紀前半。
ちょっと無理がないか?
>>430 >なんで卑弥呼がモモソヒメのモデルだというと
>モモソヒメと言い切らんといかんの?
そもそもモモソと卑弥呼なんて似てないだろ。
モデルにしたとか、根拠のないアホだろ。
>>439 >九州での大陸からの渡来遺物を定点とした土器編年を基準に
貴重な品々は伝世するからね。
ズレるかもしれないねえ。
>>477 >>469に書いた以外にも吉備津彦の墓としか考えられない中山茶臼山が4世紀前半。
崇神に反抗した武埴安彦の墓としか考えられない椿井大塚山が4世紀前後。
崇神に絡む人物がことごとく4世紀初から前半になる。
古事記の没年干支が正しいとして崇神はAD318年没であろう。
>>185 >二口かみあれた258年=庄内3式<
二口かみあれたでは、どういう材の使用(柱か?板か?)だったのか?が判らないから、
258年の後何年後であるのか?が判らないが、
庄内3なら、筑紫の庄内の伝播や東征将軍らによる伝来の庄内であった、という可能性もある。
年輪年代は、樹皮付近のサンプルがなければ、伐採時期が何時以降なのかが分かるだけなのだが、
例え樹皮付近のサンプルがあって伐採時期が分かっても、サンプルが使用されたり、埋められ年代は、伐採された時期より、後だということが、
頭の悪い奥山氏には、理解できないのだな、、、
475日本@名無史さん2019/09/14(土) 19:45:46.44
>>470 >年輪年代には、まだいくつか問題がある。
中塚武教授の酸素同位体比を使った新しい年輪年代法とも合うらしいよ。
年輪年代は100年古く出るとか言ってた人は撃沈w
>>482 単純明快なことなのだが、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、脳を破損した奥山氏には、理解できないのだな、、、
>>470 >卑弥呼の墓とするのは、「冢≠前方後円墳」という問題があるために、×。
これは大賛成だわwww
例えば 南の島〜?
浦島マリンのような曲もあったりw
>>450 >崇神の年代は、纏向の年代に合わせればいいだけだぞ?
論理が無茶苦茶だ。
>>459 >土器様式の変遷は、作っている人の代替わりで様式が変わると考える(自然な想定)と
勝手な仮説。
現代だって、20-30年前と食器なんて変わっていないぞ。
このような曲も、あるでしょ?
『小椋 例えば遥か 南の島の 』
うらしまん?
>>190 >>悪いことに卑弥呼が死んで大急ぎで墓をつくり <
>塚は一日でできると思う。<
例えば、一つの殉葬墓の葬儀であっても、
甕棺、石蓋土壙、箱式石棺、竪穴式石室などは、
いずれも埋葬作業も大変で1日かかりそうで、百余人では百日位は掛かると思うし、
それに長径25.5m以上の葺石の高さ5m位もある「冢」では、
一月位はかかる、と思うよ。
>>481 >
二口かみあれたでは、どういう材の使用(柱か?板か?)だったのか?が判らないから、
>258年の後何年後であるのか?が判らないが、
とかいう以前に
「二口かみあれた258年=庄内3式 」
がガセネタ
w
w
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>>490 >理由のない賛成をするのは愚か者
諸葛亮伝「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」
君の大好きな箸墓は墳。
冢ではない。
>>493 森井、森岡編年はおまえに何度も見せたが。
お前は反論できなかった。
ついに痴呆症が始まったか。
>>464 >>その「年輪年代の二口かみあれた258年=庄内3」って
>どっから湧いた?
>だから森井、森岡編年だと言ってるだろうが、このハゲ。
だから、逃げ回る詐欺師さん
そんなもんが実在するという証拠は?
「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」
高天原そのままなのだがw
<iframe width="265" height="149" src="
http://bbs10.aimix-z.com/embedded.cgi?room=e_asia&image=114_23.jpg&imgh=149&imgw=265" frameborder="0"></iframe>
>>494 >君の大好きな箸墓は墳。
>冢ではない。
という理由は?
>>495 >森井、森岡編年はおまえに何度も見せたが。
>お前は反論できなかった。
だから、病的な嘘つきさん
その証拠は?
>>469 >そうだとしても3世代。
抜けが何世代あるかは分からないだろ?
こういうのこそ「個人の考え」を前提として、推論を重ねるってやつジャンww
>>472 >河上神社に淀姫様がいらっしゃるからだよ。
淀姫と台与は無関係ww
>>497 リンク失敗、これでどうか。
高天原にある卑弥呼の墓だ。
奴婢=土蜘蛛塚もある。
>>199 出たよ
大和説名物「南→東などの嘘付き騙しの大和説考古学への完全信頼」
大和説の即死を避けるには必要不可欠か
>>500 だから他の豪族との対比でもわかる。
応神から崇神までおおよそ3世代さかのぼる。
>>466 >俺は崇神の墓を4世紀前半の行灯山と考える。
>古事記の記述にも合う。
それ、逆なんだわ
古事記の没年干支を318年とした上で行灯山を崇神陵としているから
行灯山が4世紀前半になっている
古事記の没年干支を258年と見れば行灯山が三世紀半ば過ぎになるだけ
>>498 >という理由は?
「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」
冢は高さがなくても良い。
例えば高天原の径百余歩の冢のようにwww
>>488 >論理が無茶苦茶だ。
自分はさんざん記紀を根拠にしているくせに、崇神の宮が磯城瑞籬宮と書いてあるのは
認めないのか?ww
垂仁天皇の宮が紀で纒向珠城宮、記で師木玉垣宮とあるように、
磯城と纏向は一体の地だぞ
崇神から、纏向に宮処があったとするのは普通の見解
>>505 >それ、逆なんだわ
古事記の没年干支を318年とした上で行灯山を崇神陵としているから
行灯山が4世紀前半になっている<
布留1式だったはず。
4世紀前半で何も問題ない。
>>488 >相手してやれよ!
九州説に任せるよ
一応、左側スロープ君も畿内説を自称しているし、
九州説の人が論破できる唯一の畿内説だからがんばって相手をしてあげてww
簡単に論破できるから、ストレス発散になると思うよ
川崎区に大島というところがあるんだけど、
その辺りの話もしていたりw
歌舞伎、芝居関係?
『川崎区 大島 梅沢』
出演したことがあると書いてあったりw
>>215 >九州説の人間はなぜか対人コミュニケーションに難があるようだ
こちらがいくら話しかけても応答がおかしい<
違うんだよ。
「南→東」などの嘘付き騙しがはっきりしてしまって、
言葉使いが狂暴になって来ているいる類スレ主は、
ちょっと京都アニメ犯人のような大事件を起こしそうで、怖いから、
大和説者は、殆ど皆、まともに相手にせず、あしらう程度にしているんだよ。
>>487 >現代だって、20-30年前と食器なんて変わっていないぞ。
土器様式の違いを理解していないだろ?
このレベルを見分けているんだぞw
「畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開」
田中元浩
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/12/20/12_20_47/_pdf/-char/ja こういうのは、作り手の手癖に起因する部分も大きい
作り手の代替わりというのは、基本的な想定だ
>>224 これだから九州説はいつまでたっても日の目を見なかった
>>504 >応神から崇神までおおよそ3世代さかのぼる。
三世代では無理
宝賀寿男氏の論及でも読みな
>>515の訂正。また途中で投稿ボタンを押した事になってしまった。
>>224 「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、
これだから大和説はいつまでたっても日の目を見なかった
>>515 面白いのが、集会遅れで自分のこういう書き込みを見つけてから、訂正とか書くんだぜ
ザラゴキは早くボケないかな
>>225 これが、
「南→東」など嘘つき騙しのような「勝手な思い込み」を、事実だと断定して、
それを前提として九州説者の説明を否定するという
無根拠にして卑怯で姑息なやり方
類スレ主のやることは基本的にいつもこれ
自説に都合のいいことはただの妄想であっても正しい事実
九州説の主張はいくら根拠があっても確定しない部分が一つあれば
それだけで内容の是非とは無関係に否定
モモソヒメを卑弥呼としたところで、なんで干支を2運120年ずらしてまで、
卑弥呼を神功皇后の時代にあてはめたのか、その理由がない。
アマテラスにしても同じく。
ただ一人、卑弥呼:Bei mei hu =比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、
つまりヒメ(蹈鞴五十鈴)后だけにその理由がある。
卑弥呼がヒメ(蹈鞴五十鈴)后なら、その約5世代100年前の倭国王帥升:Shuai sheng がスサノオだとばれてしまうからだ。
日本の歴史が中華皇帝への土下座から始まることがばれてしまう。
だから時代を大きくずらして神武がBC660年などとなったのだ。
>>517 そんなもの読む必要がない。
古事記の
仲哀没年 壬戌(362)
成務没年 乙卯(355)
崇神没年 戊寅(318)
で何も問題ない。
景行や垂仁の没年干支が書かれていない分、信ぴょう性が増す。
『夢芝居』〜『Master of Puppets』?
日本の話なのかな、何なんだろう
>>229 >継体は九州を攻めた側だぞ?<
記紀の記載は、根本的に、
九州倭国の存在や歴史を抹殺盗用造作した半分偽書であるから、
それの史料批判をして、本来の倭國の歴史を推定する必要があるんだよ。
>白雉は白鳳の、朱鳥は朱雀の劣化コピーであり、
おそらく白鳳と朱雀が本当の倭国の年号だろう。<
ダメだよ。
白雉年号も朱鳥年号も、列島の諸文書や諸神社などに使用証拠があるから。
>>236 知能に問題のない大和説者や大和説学者の人に遭ってみたいものだ
>>526 九州説自体が、邪馬台国が大和にあれば、大変困った国学者たちが創り上げた虚構。
それは古代天皇や始祖王スサノオの朝貢を意味するからだ。
だから中国に朝貢してたのは大和朝廷ではない、九州の小国だというのが彼らの持論。
彼らとは新井白石や本居宣長だ。
>>258 >連続句読点、キウス、ザラゴキはいつも狂ってるよ
そして「個人の考え」連呼君は、いわゆる工作員レベルの人
反安部・日本下げ陣営の人だって、何の脈絡もなく自白してたからねww
あと、あまり来ないけれど半島南部投馬国の人も頭おかしい
佐賀川上バカの人も、魏志倭人伝原理主義をやめられれば話ができるんだけど
原理主義は本質が宗教だからなかなか改心できないんだよね 残念なことだ<
発狂しているな?、「南→東」などの嘘吐き騙しで、
キョクウ皇国史観大和説の人種的殺戮戦争狂の類スレ主
>>260 >であるなら、出雲・投馬国経由の日本海ルートが本命なのは理の当然だな<
「南≠東北」などに拠って、×。
>>528 この人の認識能力がよく分かる書き込み。
この理解力じゃそりゃ畿内説も信じちゃうわ
倭国乱れて大騒動で、やっとこさ女王卑弥呼の共立に持ち込んだ。
ところが今度は、南の方で狗奴国の反乱が続き、帯方郡に軍師の派遣を願い出るしまつ。
悪い時には悪いことが重なるもので、卑弥呼が急死して大急ぎで墓をつくり、
葬式が済んで、やれやれ後継ぎに男王が立とうとしたら、又もや倭国乱れててんやわんや。
そんな不安定な時代に巨大な箸墓なぞ作ってるヒマなかろうが、、。まして女王の権力基盤が定まっていたなどとバカもたいがい
>>532 だな
古墳は権力基盤固定の象徴でありその特色は前時代の反省の上に成立したものだろう
とすると卑弥呼は死んで権力のひきつぎが未達成の状況下古墳を作る文化が出来たとすると時代的に符合するかも
やはり、邪馬台国畿内説には、拠り所が無くなってしまい、内容の無い意見しか発表出来なくなっているのだな。。
神獣鏡や内行花文鏡,画像鏡などのぼう製鏡が阿波でつくられた。
「宮谷古墳」は徳島市国府町と名西郡石井町の境界をなす気延山の東に延びる気延山古墳群の盟主的な前方後円墳で、
3世紀末〜4世紀初頭の築造年代が考えられ、前方後円墳では徳島県内最古の一つである。
主軸は畿内(南北方向が中心)と相違し、東西方向という地域性(東四国に多くみられる)を有している。
副葬品では、棺内から重圏文鏡、碧玉製管玉、ガラス製小玉、鉄鏃、鉄鉾(軸身系)、板状鉄斧、やり鉋など、
棺外から鉄剣などが出土している。前方部からは「張是作」銘の三角縁銘帯六神四獣鏡、三角縁唐草文帯ニ神二獣鏡片、三角縁神獣鏡片の三面が出土している。
この内、三角縁銘帯六神四獣鏡は、京都府八幡市内里古墳、32面の三角縁神獣鏡が出土した奈良県天理市黒塚古墳などと同笵あるいは同型とされるものがあり、
一方、三角縁唐草文帯ニ神二獣鏡片も大分県宇佐市赤塚古墳などに同笵あるいは同型とされるものがある。
また、三角縁神獣鏡片も島根大学の岩本崇氏により、群馬県の天神山古墳の三角縁獣文帯五神四獣鏡と同笵との指摘がなされている。 @阿波
>>258 >佐賀川上バカの人も、魏志倭人伝原理主義をやめられれば話ができるんだけど
ま、そうおっしゃいますな。
末盧国の東南500里の佐賀川上は良いところですよ。
ここには巨大な街路遺構もあり、百済系の廃寺も残っていて、古代の繁栄を忍ばせます。
そして東南100里の佐賀市街に奴国、東行100里の吉野ケ里には不彌国。方角も里数も倭人伝の行程記にピタリ一致してますし・・・。
>>536 例えば、佐賀川上バカの人は泡なんかの書き込みはどう見えるの?
バカがバカなことを書いてるなぁ、って思わないかい?
倭国の女王国を去ること四千里、南方にあるとされている「小人の国」侏儒国
種子島は同時代、小人の国だった。
もう明らかに九州だろ邪馬台国
http://www.town.minamitane.kagoshima.jp/education/bunkazailist/hirotaiseki.html 広田遺跡(種子島)
158体の人骨が出土しました。埋葬された人骨を調べた結果、広田人は、
身長が成人男性で平均約154p、女性で平均約143pしかなく、
同じ頃の北部九州の弥生人(成人男性で平均約163p、女性で平均約152p)と比べても、極めて身長が低い人々であることがわかりました
>>537
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。 @阿波 >>538 身長が10センチ違うくらいで侏儒とは言わない
魏志倭人伝の記述では人長三四尺だ
通常の魏朝の度量衡で尺=24センチだから72〜96センチで1メートルいかない
>>506 >過去レス探せ、俺は面倒くさい
デマだから証拠が出せないのだよ
うそばかりつく常習者
詐欺師
>>325 >そして、それぞれの研究分野、研究対象についての論文をすべて
邪馬台国畿内説を前提にして書いてる<
はいはい、すべて?が、国民や中国学者や人類の常識に反して、
「南→東などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙し」の 国家権力に隷従した奴隷ね。
>二口かみあれた258年=庄内3式
・・・
>森井、森岡編年はおまえに何度も見せたが。
・・・
>過去レス探せ、俺は面倒くさい
「お前」が誰だか知らんがカナーリ妄想入ってるな
知り合いのS氏のサイトにかつて森岡編年や森井編年と
比較対象の光谷データが並べて掲載されてたが、ゴッチャにしてるんだろう
厳密じゃないので目安程度にとコメントがあったのに読み飛ばしてるんだろうし
>>339 これ、まさに
半分偽書の記紀の考えを、「確定した事実であるかのように次の論拠」
にした「砂上の楼閣」の大和説だな
>>544 またzarakokuが捏造してるな
これって、どれよ
朝から発狂か
>>355 >今では決着済みだから、邪馬台国で論文を書く専門の研究者はいないけれど
それぞれの研究分野の論文を書く時にはヤマトが中心というのが既に前提となっている
こんな感じでね
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木 憲一
より引用 <
佐々木も「南→東」などの嘘吐き騙しの、×男ね。
つまり九州説は特殊な人々の間で細々と続いている信仰なんだね
>>359 >>以前見せた森井、森岡編年 <
>>口先で「見せた」と言うだけで絶対に見せようとしない この詐欺師
クズ説はインチキに始まりインチキに終わる<
森岡編年なら、以前に5chでも何度も掲載されて、見て批判した事がある。
森井は、名前はやはり5chで見た記憶がある。
>>364 >ほかならぬ自分の主張の根拠を頑として言おうとしない九州説は異常だよ <
まあ、
「南→東」などの嘘吐き騙しで古代を論じようとしている大和説学者が異常なのであり、
そんな学者の論文なんて何の価値もなく、読むのは全く時間の無駄なのであり、
それを「その論文を提示せよ」と命令する類スレ主の方が、異常だよ
>>550 読んでもいないものを批判してると自称する
九州説脳の不可解
w
w
w
九州説には根拠がありませんって自慢してんじゃないの?
>>365 >なるほど、、、
立小便男の言っていることは、嘘ではないのだな。。。
森岡氏は「卑弥呼の謎 年輪の証言」講談社、森井氏は「卑弥呼誕生」東京美術で、
それぞれ、二口かみあれた=庄内3=258年という発表をしているね。
そして、その研究のソースは有名な大河内隆之氏の先生なのだね。。。<
なるほど、
大河内隆之なんてどんな人物なのか?は、全く知らんが、
森岡や森井は、「二口かみあれた」を論じていたのか。
しかし、258年は、柱か板か?が判らんから258年頃以後だろう、という事しか判らんし、
庄内3は、米田の「布留の南加賀説」もあるから、これも258年とすることが難しい。
>>382 >>佐賀川上バカの人も、魏志倭人伝原理主義をやめられれば話ができるんだけど <
>あれはあれで困りものだが、魏志倭人伝に忠実であろうとする態度はまだ評価できる。
畿内説よりはマシ。
川上は壹與の都だよ。<
大体、賛成。古賀さんも、「與止姫=壹與」説だよ。
>>389 >詭弁使いの常道
勝ち目のないときは「どっちもどっちで引き分け」という印象操作をするww <
これ、類スレ主ね。
しかし、「引き分け」説は、既に何人か?の通説者からも出ていたが、
通説側は、かなり「議論の負け」を自覚して来ているようだね。
類スレ主もちょっと弱気に見える。
しかし、「南≠東」などの問題点に反論出来なかった大和説は、
いくら「学者らの多数が大和説だ」と自慢しても、
国民や中国学者らや人類の常識には勝てないから、
いずれは×であり、先は見えているが、
しかし、宗教に狂った人種は怖いから、オームや京都アニメ犯人のように、
最後はテロや殺し合い戦争を起こそう、とするやも知れん。
>>391 「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説は、
反論しない
ただ拒否するのみ
>>399 >九州説は史料批判ってなんだか解ってないだろ
我々がやってるのが史料批判だ <
史料批判とは、古田さんが使っておられたから知った文言であり、
文献考古の史料事実に対して、
それの発生状況や回りの資料状況から、その信頼性の程度や確率を帰納的に推論する事であり、
その結果が、私が「史料実態」と呼んでいるものだ。
大阪府堺市の百舌鳥古墳群は、
瀬戸内海が、干満による潮流が非常に速く、世界有数の難所であることから、
潮待ち港を造り、澪標(みおつくし)を完全に整備された五世紀 雄略天皇の時期以降、築造されたものだろう。 @阿波
>>555-556 こういうウソが平然とつける九州説って
すごいよ
光谷拓実1995「二口かみあれた遺跡出土木製品の年輪年代」
]『二口かみあれた遺跡』石川県志雄町教育委員会.
とりあえずこのあたりを入手できればと思う。
アフォの
>>1は悲鳴を上げて退散するであろう。
もっとも箸墓建造時期が248年なんて根拠は何もないし、
高齢の女王が死んで慌てて完成まで10年の墓を作り始めるなんてヨタ話が通用するわけないのだが。
>>560 奥山は当然持ってるだろ
そして庄内3だなんて書いてないことも知っている
>>561 自演ご苦労様。
仮に箸墓建造時期が248年と証明されても、
上記、高齢の女王が死んで慌てて完成まで10年の墓を作り始めるなんてヨタ話が通用するわけない。
箸墓は卑弥呼の墓ではなくイカガノシコオだしね。
建造開始は270年ごろだろう。
>>560 森井の編年表に
「二口かみあれた258年=庄内3式 」
なんて書いてないことは認めた?
ウソついてたこと懺悔する?
>>562 >上記、高齢の女王が死んで慌てて完成まで10年の墓を作り始めるなんてヨタ話が通用するわけない。
そう決めつける理由は?
>>562
>箸墓は卑弥呼の墓ではなくイカガノシコオだしね。
伊迦賀色許売(イカガシコメ)・伊迦賀色許男(イカガシコオ)姉弟は、ここ阿波で生まれ、暮らし、葬られている。
物部氏・蘇我氏・葛城氏の祖、伊迦賀色許売(イカガシコメ)・伊迦賀色許男(イカガシコオ)姉弟は、ここ阿波で生まれ、暮らし、葬られたのである。 @阿波
延喜式式内社「伊加々志神社」http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/44664411.html 「先代旧事本紀 巻五 天孫本紀」では饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖神と仰ぎ、六代目にあたる伊迦賀色許売(いかがしこめ)、
伊迦賀色許男(いかがしこお)姉弟は、倭の土着豪族として朝廷に仕えた蘇我氏、葛城氏、物部氏の祖にもあたる。
伊迦賀色許男(イカガシコオ)姉弟は、
日本で唯一、忌部の郷、徳島県旧麻植郡の延喜式式内社「伊加々志神社」に祀られている。 @阿波
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。 @阿波
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR 邪馬台国畿内説が、完全に、破綻してしまい、スレッドが寂れてしまったな。。。
「天岩戸別神社」は徳島県名東郡佐那河内村上字牛木屋に鎮座し、「手力男神」が祀られている。
この神は「古事記」に天岩戸を開けた神として書かれ、「佐那那縣(さなながた)に座す」と書かれている。
佐那河内村は、古く「佐那県(さなのあがた)」と称されたと「村史」に書かれ「古事記」と一致する。
その上、西に山を越えると天岩戸立岩神社があり、徳島市には式内社の天石門別矢倉比賣神社と天岩戸別豊玉比賣神社が鎮座することは、
天孫降臨の地が、阿波であると言わざるを得ない。 @阿波
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。 @阿波
飼い犬が亡くなり、朝の散歩がおっくうになってしまい、少し運動不足になってしまった。
天皇や皇后の墓を、
百姓が行き交い、カエルがゲコゲコの田んぼの真ん中に作るなってこたーねえだろ。ま、畿内は知らんが・・。
>>573 かわいそうだから一緒に逝ってやるといい
>>564 10年間も女王の御遺体を殯(もがり)する意図がない。
だいたい倭人伝に書かれてるのは塚。
墳ではない。
>>414 >ウソばっかし
「箸墓=卑弥呼の墓」説は時代が合うことと <
卑弥呼の冢は、3世紀前半末。箸墓は4世紀で、合わない。
>各地の墓制を統合してる(共立のあらわれ)こと<
「南≠東」や「大和は九州倭国の東征毛人の旧小国」で、合わない。
>工事が円丘先行な可能性が高いこと<
最初から「前方後円墳」形に区画を確保した事が判っているから、×。
>女性の墓という伝承があること 卑弥呼がモモソヒメのモデル説の説得力
などなど根拠はたくさん山盛りだ<
「南≠東」だけで×。
>>577 >書いてたよ、大友西と同じくね。
どうして平気でウソつくの?
証拠出せる?
出せないでしょ
詐欺師だなあ
>>578 >10年間も女王の御遺体を殯(もがり)する意図がない。
「意図がない」って
どうしてそんなこと解るんだ?
???
>>415 >>そのなかに二口かみあれた258年もあったわけだが、<
>はい、証拠だしてね詐欺師さん<
おや?、類スレ主は、ジオスターズか何やらが画面に出なくなっている、という話だったのに、
やけにしつこいね?。
そりゃそうだわ。
北陸に「年輪年代258年で庄内3の発掘」があれば、
「箸墓=卑弥呼の冢」説は、は、完全にアウトだわ。
>>417 >(壹與の墓)西殿塚だがな、何か?<
勿論、「南≠東」で×だ。
>>582 言い張っても証拠が出せないんだから
いつもどおり九州説がアウトだろ
>>418 >それがそもそもの認識の誤り
最大の根拠は、それまでの列島上のいかなる墳丘墓からも隔絶した
画期となる巨大墳墓だからなんだよ 新しい王権の始祖王の墓、以外の説明は難しい <
九州倭國の「東征毛人五十五國」の旧小国であって、
将軍らが毛人らを強く支配する必要があったから。
>合わないと思っているのは九州説だけ、標準編年で造墓に10年程度を見込めば
まさにぴったりといってよいくらいに合致する<
卑弥呼の冢は3世紀前半末で、箸墓は4世紀で、どうしても合わない。
>円丘先造なのはほぼ確実
テンプレにも詳しく書いてある
>>25 FAQ23を参照
まあ、それ以上に「後円部が墓と認識されていた」で十分だろう

明治9年撮影<
始めに「前方後円墳形に地面確保」されたから、前方と後円は一体工事。
>纏向遺跡が、崇神・垂仁・景行の宮処だと考えられるのだから、その頃の
ヒメ王と考えられる皇女を想定すればよい 倭迹迹日百襲姫命で特段の問題はない <
あっ、そう。卑弥呼の墓は諦めるのね。
大和説は、実にぶざまな説になり下がった。
>>419 「類スレ主」君は、反論の体をなしていないことに気づいたんだろうか?
まあ、反韓・反中の皇国史観のキョクウ戦争工作員さんみたいだから、
懲りずに続けるんだろうな
>>585 >卑弥呼の冢は3世紀前半末で、箸墓は4世紀で、どうしても合わない。
あんたが考えた、なんにも根拠のない、あんたの独自説と
どうしても合わないって
それ、なんか畿内説への反論になるのか?
ならんぞ
>>585 >あっ、そう。卑弥呼の墓は諦めるのね。
大和説は、実にぶざまな説になり下がった。
相手のまったく言ってないことを
勝手に決めつけ押し付けるって
そりゃアンタがブザマなんだよ
>>439 >>(箸墓)強引に建造開始を3世紀中ころにして、<
>全然強引じゃないよ?
九州での大陸からの渡来遺物を定点とした土器編年を基準に<
ダメだ。
九州の筑紫の土器編年では、庄内は3世紀前半なのに、
大和の庄内1の石塚が撥型前方後円墳であって3世紀末であるから、箸墓は4世紀になって、
大和の土器編年は筑紫より50年位遅れる事になる。
>14C年代など理化学的方法を組み合わせて矛盾なく説明できているから<
AMS法は、プラズマ化に拠って不安定になった原子核の、
「中性子→陽子+電子+ニュートリノ」で、ベータ線(電子線)が起こって、
ベータ崩壊が促進されてしまうから、
50〜100年位古い年次が計測計算されてしまう。
>>440 「南→東」などの嘘付き騙しの大和説がされ、
また幼稚園児程度の発言してるね
オウム返しされるのは、おばかの証拠だよ
>>449 >実際、崇神の陵だと考える人もいるよ
まあ、記紀の箸墓の造墓記事をどこまで重視するかっていう程度のことだけれどね
個人的には、卑弥呼と崇神が姉・弟のヒメヒコ制で
二人セットで始祖王だったでいいと思うけれど<
「南≠東」などに拠って、類スレ主は、×ね。
>>589 >庄内は3世紀前半なのに、
>大和の庄内1の石塚が撥型前方後円墳であって3世紀末であるから、
これがおかしいっていうんで、1980年代に編年の見直しが行われたんだよ
この見直しが、邪馬台国論争の決着の導線
ただ見直しを発表したのが若手だったから、年寄り連中はなかなか
認めなかったけどね
でも、結局は真実が勝つので、今ではこれが標準編年になってる
今となっては、九州と畿内で同形式の土器の編年が50年も
違ってたなんていうのはとんだお笑いぐさだ
そのお笑いぐさを主張し続けているのがザラゴキであり九州説
師匠に対する忖度があるとか、長いものに巻かれるとか、学問の世界では
意味がないってのが、こういうところからも明らかになるww
九州説のいうことは基本的にデタラメ
西殿塚古墳
>現在は宮内庁により手白香皇女(第26代継体天皇皇后)の陵に治定される。
>ただし築造年代は手白香皇女の6世紀頃という想定年代に合わないため、真の手白香皇女陵については西山塚古墳(天理市萱生町)とする説が有力視され、
>代わって本古墳の真の被葬者については卑弥呼(箸墓古墳被葬者か)後継者の台与とする説などが挙げられている。
箸墓=卑弥呼の余波で、六世紀になったり三世紀になったり、だいぶギクシャクしているようだな。
左側スロープ君の見分け方
高天原
土蜘蛛
イカガノシコオ、イカガノシコメ (通常はイカガシコメと「ノ」は入れない)
奴婢殉葬
纏向は物部
卑弥呼(Bei mei hu)=比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉
高齢の女王
神武と卑弥呼は夫婦
もう、自分の巣へ帰れよ!
>>594 手白香皇女の墓が延喜式に衾田墓として記載され、大和国山辺郡の所在で守戸は無く
山辺道勾岡上陵の陵戸が兼守するとするとあるので、西殿塚古墳を当てているだけで、
真の衾田墓は西山塚古墳といわれている
西山塚古墳は6世紀の築造で問題ない
>>594 >箸墓=卑弥呼の余波で、六世紀になったり三世紀になったり、だいぶギクシャクしているようだな。
卑弥呼にこじつけるために編年をいじってしまって、考古学全体がおかしくなっている。
神の手の行使は糾弾されるべきだよ。
>>597 >卑弥呼にこじつけるために編年をいじってしまって、考古学全体がおかしくなっている。
証拠でもあるの?
なきゃ、いわれなき中傷だよ
九州説って犯罪者?
>>475 >中塚武教授の酸素同位体比を使った新しい年輪年代法とも合うらしいよ。<
酸素同位体比も、年輪年代と同じような問題点があり、
基準材の生育環境の年次変化と、 検体材の生育環境の年次変化との、
同一性が保証されるのか?、 という点。
特に年間の全降水量の差異問題や、冬の積雪の有無や、年平均気温や日照時間の年次差異、
という問題があるのは、年輪年代と同じ。
また、伐採年次と、柱や板としての使用開始年次との差の問題も同じ。
つまり、酸素同位体比法も、伐採年の推定に使えても、
使用開始年次の特定には全くならないもの。
>年輪年代は100年古く出るとか言ってた人は撃沈w<
「寝かせ」期間や、運搬期間や、「柱か板としての処理」期間や、
樹皮から材採取年輪までの年輪数など、伐採年から建築材としての使用年次までの、
年数が全く不明。
板であれば、簡単に50年は越えてしまいそう。
3世紀に、纒向に人が居なかったと、
誰も言って無いのに、炭素年代測定まで、
持ち出す必要は無い
畿内説の焦りしか無い炭素年代
>>513の訂正
違うんだよ。
「南→東」などの嘘付き騙しがはっきりしてしまって、
言葉使いが狂暴になって来ているいる類スレ主は、
ちょっと京都アニメ犯人のような大事件を起こしそうで、怖いから、
九州説者は、類スレ主に対して、殆ど皆まともに相手にせず、
あしらう程度にしているんだよ。
>>601 >3世紀に、纒向に人が居なかったと、
>誰も言って無いのに、
三世紀前半に纏向で広域から人が集まる国家レベルの祭祀が行われていたのを
認めるならそれでいいよ
>>515 「南→東」などの嘘付き騙しをするからするから、
大和説はいつまでたっても、
国民や中国学者らや人類の支持を受けなかった。
つまり明治のころには、大和桜井〜天理方面に卑弥呼の墓や臺與の墓を想定shていなかった。
だが戦後昭和になって、原田大六が箸墓・ヒミコ説を云いだした関係上、釣られて大和の学者もあとを追い、横取りした。
そしてやがて西殿塚を臺與に付け替え、手白香皇女には被葬者不明の西山をあててつじつまを合わせるようになった。こういう経過だな。
倭国乱れて大騒動で、やっとこさ女王卑弥呼の共立に持ち込んだ。
ところが今度は、南の方で狗奴国の反乱が続き、帯方郡に軍師の派遣を願い出るしまつ。
悪い時には悪いことが重なるもので、女王卑弥呼が急死して大急ぎで墓をつくり、
葬式が済んで、やれやれ後継ぎに男王が立とうとしたら、又もや倭国乱れて戦死者千余名のてんやわんや。
そんな不安定な時代に巨大な箸墓や西殿塚などを次々に作ってるヒマなかろうが、、。
ましてその時期、女王さまの権力基盤が定まっていたなどとバカもたいがい。
>>547 つまり大和説は、
国民や中国人学者らや人種の常識に反して、
「南→東」などの嘘付き騙しをする特殊な人々や学者らの間で、
細々と続いている人種差別的戦争宗教の信仰なんだね
>>601 >3世紀に、纒向に人が居なかったと、
>誰も言って無いのに、炭素年代測定まで、
>持ち出す必要は無い
なんか九州説の言ってること支離滅裂だな
炭素年代測定は遺物の帰属年代を理化学的方法で調べてるんだぞ
3世紀に纒向に人が居たか居なかったか調べてるわけじゃない
爺さん何を考えてるのかサッパリわからないな
>>551 「南→東」や「冢→前方後円墳」などの嘘付き騙しのように、
史料事実の否定曲解の否定曲解を、
していないのだ、と自称する大和説の、脳が不可解
>>552 「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
根拠がありません、と自慢して、
開き直ってんじゃないの?
>>559 「南→東」などの明らかな嘘つき騙しの、
こういうウソが平然とつける大和説って
すごいよ
>>599 それ、君がいつも「妥当」と言い続ける時も周りが感じている疑問なんだよ。
>>584 いくら「南→東」などの嘘付き騙しを言い張っても、
証拠が出せないんだから
いつもどおり大和説がアウトだろ
>>604 >三世紀前半に纏向で広域から人が集まる国家レベルの祭祀が行われていたのを
郡使た駐留した九州北部からは集まっていないし、楽浪帯方からも来ていない。
邪馬台国とは関係ない。
>>609 >炭素年代測定は遺物の帰属年代を理化学的方法で調べてるんだぞ
その結果は卑弥呼の時代より前だし、そもそもどんな時代でも邪馬台国と関係していた証拠にはならない。
つまり畿内説は現時点で証拠が全くない。
オウム返しをするばかり
九州説のオウム人間ザラコク
>>593 >これがおかしいっていうんで、1980年代に編年の見直しが行われたんだよ
この見直しが、邪馬台国論争の決着の導線
ただ見直しを発表したのが若手だったから、年寄り連中はなかなか認めなかったけどね
でも、結局は真実が勝つので、今ではこれが標準編年になってる<
だから、そんな講釈だけではダメだ。
見直しの標準編年の根拠と論理を書き出せばよい。
>>598 >>卑弥呼にこじつけるために編年をいじってしまって、考古学全体がおかしくなっている。<
>証拠でもあるの?<
「南≠東」などに拠って、「卑弥呼にこじつけた」事が間違い。
だから、大和説者は、みな「嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師」。
大和説者って犯罪者?
>>603 >事件を起こしそうなのは九州説だろ<
九州説者は、皆原則として、史料事実からの帰納的確率的推論であり、
何も問題がなく、事件を起こす必要がない。
事件を起こしそうなのは、
「南≠東」などの嘘付き騙しがバレて、議論に負けそうになり、
失職して生活困難になり、絶望して、
京都アニメ放火犯のように、
邪魔をした奴を皆殺しにしてしまえ、と考える可能性がある大和説者。
>>604 >>3世紀に、纒向に人が居なかったと、誰も言って無いのに、<
>三世紀前半に纏向で広域から人が集まる国家レベルの祭祀が行われていたのを
認めるならそれでいいよ<
大和は、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職を貰っていた旧小国であったようだから、
3世紀に広域から人が集まる事は有り得るが、
それは地方の国での話であり、
「広域から人が集まる国家レベルの祭祀」か?と言われたら、まだ×だな。
>>606 >つまり明治のころには、大和桜井〜天理方面に卑弥呼の墓や臺與の墓を想定shていなかった。
だが戦後昭和になって、原田大六が箸墓・ヒミコ説を云いだした関係上、釣られて大和の学者もあとを追い、横取りした。
そしてやがて西殿塚を臺與に付け替え、手白香皇女には被葬者不明の西山をあててつじつまを合わせるようになった。こういう経過だな。<
ふーん?、原田大六からか。
>>606 >そしてやがて西殿塚を臺與に付け替え、手白香皇女には被葬者不明の西山をあててつじつまを合わせるようになった。こういう経過だな。
本当に考え方が根本から腐ってるな
西殿塚古墳に江戸時代に比定されたのは、天皇陵と伝承がなくて皇后陵として
見劣りしない最大のものを衾田墓に当てたというだけ
現在も治定は変えられてないぞ
円筒埴輪の編年研究が進んで、西山塚古墳が大和古墳群で唯一の6世紀築造の
大古墳と分かって、研究者レベルで真の手白香皇后の衾田墓と想定されているだけ
これは継体天皇の頃の記紀の記述が信頼できる証拠でもある
白村江まで九州王朝とかいうのが、寝言以前だという証明
>>613 >それ、君がいつも「妥当」と言い続ける時も周りが感じている疑問なんだよ。
畿内説側は、いちいち根拠を挙げてその妥当性を判断している
思いつきだけで「勝手に妥当認定」しているだけの
>>613とは違うんだよww
畿内説の妥当性に反論したいなら、根拠から具体的に批判しないと!
それができない九州説は無能だってこと
だから九州説は既に死滅しているしオワコンに
すがり付いている「長期間騙され続ける少数者」しか残っていない
>>616 >その結果は卑弥呼の時代より前だし、
その後4世紀まで存続しているんだから、卑弥呼の時代にも
人々が集まる中枢域だぞww
お前、バカだろww
>そもそもどんな時代でも邪馬台国と関係していた証拠にはならない。
何度も書いているが、その当時の畿内から北部九州の奴国まで含む広域秩序が
邪馬台国じゃなかったら矛盾するんだよ
この前方後円墳体制とは別の邪馬台国30国体制は、列島上に入る余地がない
奴国が女王国連合30国に参加しているのに、畿内様式の前方後円墳を
北部九州の伝統を破棄して奴国首長墓として採用しているという現実が
説明できなくなるんだよ
いい加減に諦めろww
>>615 >郡使た駐留した九州北部からは集まっていないし、
胎土分析で北部九州からの搬入土器は確認されてるぞ
集まってるなww
>楽浪帯方からも来ていない。
韓式土器も出てるよ
来てるなww
>邪馬台国とは関係ない。
それは無理
その当時の畿内から北部九州の奴国まで含む広域秩序が
邪馬台国じゃなかったら矛盾するんだよ
この前方後円墳体制とは別の邪馬台国30国体制は、列島上に入る余地がない
奴国が女王国連合30国に参加しているのに、畿内様式の前方後円墳を
北部九州の伝統を破棄して奴国首長墓として採用しているという現実が
説明できなくなるんだよ
いい加減に諦めろww
>>627 >何度も書いているが、その当時の畿内から北部九州の奴国まで含む広域秩序が
>邪馬台国じゃなかったら矛盾するんだよ
つまり前提となる仮説に誤りがあるんだよ。
君の論議は誤った仮説をいくつも積み上げている。
>>627 >北部九州の伝統を破棄して奴国首長墓として採用しているという現実が
魏志倭人伝を読む限り、奴国は人口が多いだけで、その首長にそれほどの意味はない。
せいぜい福岡の有象無象の勢力の中に畿内と縁のある一族もいた程度。
それら全ての上に伊都が君臨していた。
>>628 >胎土分析で北部九州からの搬入土器は確認されてるぞ
>韓式土器も出てるよ
割わいで示して0%にしかならない。
それは人手に渡った土器が紛れていた程度でもいい話であり、九州北部や帯方郡からは誰も纒向には来ていなかったと考えるのが妥当。
考古学的には、纒向は帯方郡や邪馬台国と直接の交流がない田舎だったと考えるのが妥当。
マキムク遺跡
桃核が炭素年代で3世紀・・・あっそう 吉備なんかもっと多い モモは斎場のお供え物かな
土器の付着物が炭素年代で3世紀・・・あっそう 日本全国土器で煮炊きしてたから騒ぐことじゃないな
纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない(四捨五入で1%に満たない)。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の影響下の後進地域であった。
畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。
河内が狗奴国とする説もあるが、その場合も纒向は半島大陸への玄関口である筑紫へのアクセスルートがなくなり、魏と交流できた可能性は低い。
尾張とはむしろ密接な関係であり、尾張を狗奴国と想定することもできない。
考古学的には邪馬台国畿内説は成立することが困難である。
スレッドの者達に、挨拶します。
初めまして。
僕は、趣味で邪馬台国畿内説を研究している人物です。
今、スレッドをpart1から順番に、全て読みました。
邪馬台国畿内説が、完全に破綻したことが、わかりました。
有難う御座いました。
糸島中学の代用教員であった原田大六は、戦後昭和の邪馬台国論争に名乗りを上げ、
倭人伝の卑弥呼と、日本書紀の倭トトヒモモソ姫には、類似点が多いから箸墓は卑弥呼の墓であると主張した。
類似点:
1.邪馬台国の女王と、倭の名を冠する最高位の姫
2.鬼道に仕える卑弥呼と、天皇の請いで神懸かりする姫
3.奴婢100人を殉葬したという卑弥呼の大墓と、人と神が日夜を分かたず作ったという箸墓、
このように、そもそも原田のよりどころは日本書紀であり、
その紀中に倭人伝の卑弥呼に類する姫と墓を見出したということに過ぎない。今の畿内説はその延長線上にあるのである。
>>635 どうしてかな?
パート1から全部読んだのなら
さぞかし説得力のある論を発表できるだろう
すでに発表されたことが書いてあるんだろ?
おかしいじゃないか。
>>629 >つまり前提となる仮説に誤りがあるんだよ。
>君の論議は誤った仮説をいくつも積み上げている。
その誤りを一つたりとも「具体的に指摘できない」のが、
>>629と九州説の限界
もう、無理なんだよ
たくさん誤りがあると「いうだけ」
誤りの提示すらできない
バカ丸出しww
>>630 >魏志倭人伝を読む限り、奴国は人口が多いだけで、その首長にそれほどの意味はない。
>せいぜい福岡の有象無象の勢力の中に畿内と縁のある一族もいた程度。
>それら全ての上に伊都が君臨していた。
これすべて
>>630の「個人の考え」を正しいとした前提の上でのできの悪い作文ww
まず「魏志倭人伝を読む限り」というのが古代史へのアプローチとして間抜け
考古学的な発掘成果から、比恵那珂遺跡群が北部九州でもっとも栄えた場所なのは確実
それを過小評価する理由が魏志倭人伝というのは本末転倒
魏志倭人伝の倭国地誌記事は駢儷文を意識しているので、
奴国の記述は不彌国の記述に合わせてある
不彌国の情報が少ないため奴国もあっさりしている
「せいぜい福岡の有象無象の勢力の中に畿内と縁のある一族もいた程度。」
福岡の有象無象というのがただの想像
比恵那珂遺跡群には、那珂八幡古墳という卓越した墳丘墓があり、
それに対抗するようなまたは同等と言えるようなものは存在しない
那珂八幡古墳は奴国の首長墓なのは確実
これを否定するやつは、古代史を考えるだけ無駄
「それら全ての上に伊都が君臨していた。」
伊都国でえらかったのは一大率であって、伊都国王ではない
伊都国王は諸國畏憚之と、一大率を畏れ憚る側だ
そしてその一大率を派遣しているのが、ヤマトの卑弥呼
>>630 お前のようなバカの言うことを認めて、伊都国に卑弥呼がいたとして
お隣のお膝元ともいえる奴国で平原1号墓の100倍以上大きな畿内様式の大墳丘墓を
作るのを許すって、どういう論理で説明できるんだ?
この議論から逃げ続けて、一文字たりとも返事ができてないじゃないか
この無能が!ww
>>631 >割わいで示して0%にしかならない。
それは、形態での分類での話で、胎土分析の分は比率には反映されていない
そして、北部九州代表は地域最大国の奴国のはずだし、奴国はこの時期
既に庄内甕を受け入れているので、形態分類では奴国のものと
認識されていない可能性がある
>>637 「完全に破綻した」っていうのは、連続句読点が使う語法なんだよ
これは、連続句読点が自分以外の投稿の体で書いている荒らしの一環
>>637 >纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
>邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない
土器ってのは消耗品だから、遠くのものはその分少なくなるのが道理
九州から吉備に来るまでで壊れれば吉備で新しい甕を手に入れて先に進むだけ
だから、「少ない」ことは理由にならない
出ていることは交流があったことの証明
残念でした
お前のはできの悪過ぎる詭弁だww
原田大六の孫弟子が、祖師と同じように威張っておるな
日本書紀を後生大事にしながらな、、、、
>>109の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)▲▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│↓「陸行1月」(幻).│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」 >>641 >那珂八幡古墳は奴国の首長墓なのは確実
それは主観
>伊都国でえらかったのは一大率であって、伊都国王ではない
伊都国にいた人物が奴国を含めた周辺諸国から恐れはばかられていたわけだろ。
だから奴国の首長とやらがどこの人物であろうが、その人物が九州北部の実権を掌握していなかったことは確実。
>>642 >お隣のお膝元ともいえる奴国で平原1号墓の100倍以上大きな畿内様式の大墳丘墓を
>作るのを許すって、どういう論理で説明できるんだ?
那珂八幡の年代比定が違うんだろう。
>>643 「可能性がある」を事実であるかのようにすり替えているだけ。
形態でも纒向から九州北部の様式の土器は出ていない。それが事実。
>>643 >そして、北部九州代表は地域最大国の奴国のはずだし、奴国はこの時期
「はず」というのは君の個人の主観
そして魏志倭人伝では、最大の国は奴国だが、実権は伊都国の大率にあったと書かれている。
>>645 >土器ってのは消耗品だから、遠くのものはその分少なくなるのが道理
でも尾張の土器が筑紫から出たりするわけだろ?
筑紫の土器が纒向から出ないのは、少なくとも直接の交流はなかったんだよ。
筑紫は尾張とも吉備とも出雲とも大量に土器をやり取りしている。
纒向はおそらく尾張とだけ交流し、その他の地域の土器は尾張経由だった。
しかも目と鼻の先の河内とさえ物資のやり取りはなかった。
尾張は関東とも北陸とも九州北部ともやり取りしていた。纒向は尾張に従属する立場だったと考えるのが妥当。
>出ていることは交流があったことの証明
だから、ほぼ「出ていない」んだよ!
ほんのわずかなカケラだけでは、それで支配関係なんて語れない。
>>645 >九州から吉備に来るまでで壊れれば吉備で新しい甕を手に入れて先に進むだけ
これこそ詭弁であり、そんな証明のしようがないことを持ち出せば、九州から纒向どころか中東とも人が行き来していたと主張できるぞ?
そんな主張は意味がないし、物証の根拠がないんだよ。
だから君はこのスレで嘘つき呼ばわりされるんだ。
>>648 >それは主観
主観だと断定する理由は?
理由も言わずに決めつけるの?
以前からこのスレでは、畿内説のアホが「九州北部には周辺の勢力の侵入があった」と書いているが、それは土器などが全国各地から集まるという事実からの類推だろう。
そこには筑紫が王都であるはずがないという先入観の上に立った判断が挿入されている。
事実としては、筑紫には内外から広く多種多様な物資が集められていたということしかない。
一般的には、それは筑紫が王都であったと考えるべきなんだ。
筑紫には国内全国の物資が集まっていたし、伊都国には中国からの物資も集積していた。
「筑紫はそれを再分配していない」ということを「周囲に影響を与えていない」という主観的な判断にすり替える詐欺もいるが、権力者が富を独占するのは古代ではむしろ当然で、筑紫それも伊都が内外の富を独占した権力の所在地であったことが考古学的には明らかなんだよ。
奴国は人口が多いから物資も多く繁栄していたことは確かだが、伊都ほどには威信財がない。その奴国の墓が大きいから云々ということは無意味だね。
>>654 主観でないという根拠をそちらが示せよ。
>>651 >「はず」というのは君の個人の主観
だから、「個人の主張」だと決めつける根拠は?
根拠おじいちゃん
自分で証明しないとダメよ
掲示板の見物人に振るなよ
古墳や土器の年代を比定するのは簡単ではない。
例えば那珂八幡が240年か250年かで、もうその解釈は大きく違ってくる。
それなのに、卑弥呼の年代の墓だという仮定のもとに論を進めるのは、詐欺に近い。
根拠もなく魏志倭人伝と食い違う主張をしているのはこいつ。
>>643 >そして、北部九州代表は地域最大国の奴国のはずだし、奴国はこの時期
>>656 >主観でないという根拠をそちらが示せよ。
おやおや
やっぱり理由も言わずに決めつけるのか
じゃあ「主観だ」という断定は単なる主観だったということでいいのね
w
w
w
マキムク遺跡は最近 たいした新情報もなく
推理が先行した根拠で邪馬台国の王都と言う
これは、各説や畿内説内部からも非難の対象となるのは当たり前である
あまり先走ることなく、長い目で調査しその後に結論を出せばよい
現在は功を焦る似非学者がほざいているだけである
畿内説はマキムクから距離をおくことも肝要
畿内説が淀川水系のどこかを拠点にしていたら、すごく説得力があっただろうね。
>>658 >根拠おじいちゃん
>自分で証明しないとダメよ
>掲示板の見物人に振るなよ
アンタ発狂してるよ
>「はず」というのは君の個人の主観
って主張しといて
自分で証明しないダメ人間
九州説に拘っている奴って、いったい
何に拘っているんだい?
崇神から応神まで3〜4世代とか言ってたやつがいるけれど、
稲荷山鉄剣の系譜と比べても記紀の系譜はそんなに世代数おかしくないだろう
応神・仁徳同一あるいは兄弟説を採れば、世代数は合う
崇神 意富比垝 彦
垂仁 多加利足尼 宿禰
景行 弖已加利獲居 別
倭建 多加披次獲居 別
仲哀 多沙鬼獲居 別
応神 半弖比 −
仁徳 加差披余 −
允恭 乎獲居臣 臣
雄略
>>645 >土器ってのは消耗品だから、遠くのものはその分少なくなるのが道理 <
その通り、消耗品なのだ そんなに価値が無いものを市場で売る必要はない
土木作業員がもちこんだとみるべきだ
>>649 >那珂八幡の年代比定が違うんだろう。
那珂八幡古墳は葺き石・円筒埴輪・段築を持たない段階で後円部も不整円形
卑弥呼の遣使により魏朝からもたらされた測量技術を利用できるようになる前の形態
箸墓では後円部は整円形になる
こうやって考えれば、那珂八幡古墳の編年は間違いなく卑弥呼の治世に入るよww
「年代比定が違う」と言いながら、自分の想定する年代やその根拠を一切言わない無能が
この「個人の考え」連呼君ww
本当にバカ丸出しの無能ww
その前に、「個人の考え」連呼君は
「奴国は有象無象の勢力の集まり」っていうのを証明して見せてくれよww
妄想なんだろ?ww
>>662 >ここまでキナイコシは何も証明できてない。
という証拠は?
>>648 >>那珂八幡古墳は奴国の首長墓なのは確実
>それは主観
これを否定する人には古代史は無理だよww
>>652 >でも尾張の土器が筑紫から出たりするわけだろ?
ソースは?
横からごめんよ
「はず」と
テンプレの
「あろう」 「おそらくは」 「とも言えよう」
「と推察される」 「可能性がある」 「と考えられる」
・・・・・・
おのおのどう違うのスレぬしさんよ・・・
>>652 >だから、ほぼ「出ていない」んだよ!
遠い過去のもの、遠い距離を隔てたものは、当然に数が少なくなるのが道理
そして「実際に出てる」のが「確認」されている
個人の考えでも、推定でもないww
これが現実だww
>ほんのわずかなカケラだけでは、それで支配関係なんて語れない。
畿内説は共立による祭祀連合という立場なので、
「支配関係」なんて最初から語っていない
交流は証明されているし、交流があるなら北部九州よりも強大な国が
倭国にあることは北部九州諸国にも公知の事柄
その状態で北部九州代表が倭王になることはない
伊都国を必死で持ち上げてるが、一大率はヤマトからの派遣官だぞww
>>653 >そんな証明のしようがないことを持ち出せば、
すごいブーメランだなww
九州説が短里を証明しているのを見たことがないんだが?ww
>九州から纒向どころか中東とも人が行き来していたと主張できるぞ?
できないよ? 何を言ってるんだ?
中東からの土器の欠片なんて、胎土分析でも確認されてないだろ?
本当に詭弁すら使えない無能だなw
スレッドの者達に、挨拶します。
初めまして。
僕は、趣味で邪馬台国畿内説を研究している人物です。
今、スレッドをpart1から順番に、全て読みました。
邪馬台国畿内説が、完全に破綻したことが、わかりました。
有難う御座いました。
>>653 >だから君はこのスレで嘘つき呼ばわりされるんだ。
されてないよ? 何を言ってるんだ?
無能呼ばわりされているのが、
>>653 うそつきとして有名なのが、ザラゴキ
迷惑行為専業なのが、連続句読点
キウスと左側スロープ君も、バカで有名
>共立による祭祀連合
これがそもそも根拠ゼロの妄想
あんなしょぼい土器しか出てないんじゃよほどへんぴな田舎なんだな桜井市
>>659 >例えば那珂八幡が240年か250年かで、もうその解釈は大きく違ってくる。
>それなのに、卑弥呼の年代の墓だという仮定のもとに論を進めるのは、詐欺に近い。
そんなに変わらないだろ?
240年でも250年でも、その人物の在職期間は卑弥呼の治世と重なる
そして、
>>669にも書いたように那珂八幡古墳は
卑弥呼の遣使により測量技術が魏朝からもたらされるよりも前だ
卑弥呼の死248年より遅くにはならないから、どうやっても卑弥呼の時代だよ
ああ、九州説がしどろもどろで意味のない一言書き込みしかできなくなってるww
効いてる効いてるww
「纒向遺跡への搬入土器」という言い方あまり好きじゃないな・・・
なんとなく、取り寄せたイメージ戦略のような気がするけど・・・・
ヤマト王権なるものの実態すら明らかではないのに
無理やりコジツケるからこうなっちゃうんだよな
畿内説とか言ってるけど一般人で畿内説の人見たことないわそう言えば
>>679 やはり、わかりますか。。。
僕も、このスレッドを読んで、すぐに邪馬台国畿内説が、完全に破綻したことが分かったので、このスレッドを、邪馬台国畿内説を宣伝する者達の頭の悪さを笑いリラックスするために、利用しています。。。
なんで畿内説の工作員ってこんなに必死なの?
論破されるとバイト代がもらえないのかな?
なんで畿内説の工作員ってこんなに必死なの?
論破されるとバイト代がもらえないのかな?
なんで畿内説の工作員ってこんなに必死なの?
論破されるとバイト代がもらえないのかな?
前方後円墳文化圏なんてねーよ
もしそれを言うなら墳丘墓文化圏はもっと古くからあったことになるよ・・・
>>681 >これがそもそも根拠ゼロの妄想
墳形はヤマトから、円筒埴輪(特殊器台)は吉備から、葺き石は出雲から、と
各地の墓制の要素を持ち寄って、かつ、各地域はそれまでの墓制を捨てて、
新しい前方後円墳祭祀に統一されている
これが、卑弥呼の共立の結果だと考えるのが普通の論理的思考のできる人間の共通認識
卑弥呼は共立倭王だと魏志倭人伝に書かれており、その後前方後円墳及び墳墓祭祀での
供献土器の広範囲での統一が見られる
一方で各地の首長、のちの豪族の自立性も明確であり、支配ー被支配の関係ではない
であるなら、祭祀を関係の基盤とする祭祀連合の存在を想定するのが、
まともな思考力のある人間にとっては当然の帰結
これだけの根拠がある、というかテンプレにもたっぷり書いてあるのに
「根拠なしの妄想」って書ける人は、「脳内妄想」だけで生きているんだろうねwwwww
>>62 >白村江まで九州王朝とかいうのが、寝言以前だという証明 <
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の大和は、
欠史八代の内の4人に倭国の地方の市を監督する「大倭」の呼称が冠せられており、
崇神が九州倭国の「東征毛人」軍に参戦協力して新規領地を広げ、
景行も、九州倭國の南九州征伐に一将軍として参戦して、浮羽に凱旋し、
倭建命も熊襲討伐に参戦し、
仲哀や神功も新羅討伐に参戦して、神功が逆に大和も自家のものとして応神仁徳に継がせ、
その頃から九州倭国とは別に南朝への派遣もし、
顯宗や仁賢の「ヲケ」という名前が、
「齋永元元年、其國有沙門慧深來至荊州」の慧深によって南朝に伝えられて梁書に記録され、
梁代には、継体が九州倭国の(同じ阿毎氏の)磐井を倒して倭国王家に参画できるようになり、
扶桑國と称して、独立国的になり、九州倭国の秦王國や執政の太宰になり、
欽明之十一年、直梁承聖元年で中国とのコンタクトを取り、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」で初めて小野妹子を派遣して、
日本國を名乗らせたが失敗し、唐の武徳中になって初めて「日本國を認められたの。
>>694 >前方後円墳文化圏なんてねーよ
また頭の悪いのが湧いてるなww
「前方後円墳文化圏」なんていう用語も概念もないよww
一般に使われるのは「前方後円墳体制」だ
広瀬和雄先生は一歩踏み込んで「前方後円墳国家」という言葉を使うけどね
>>681 >>共立による祭祀連合
>これがそもそも根拠ゼロの妄想
そんなこと決めつける理由は?
>>655 卑弥呼の時代3世紀の遺跡規模において畿内に劣る筑紫が
王都であった筈がない
畿内箸墓説の元祖:
糸島中学の代用教員であった原田大六は、戦後昭和の頃、糸島伊都国説を引っ提げて邪馬台国論争に参入し、
倭人伝の卑弥呼と、日本書紀の倭トトヒモモソ姫には類似点が多いから、箸墓が卑弥呼の墓であると断じた。
類似点:
1.邪馬台国の女王と、倭の名を冠する最高位の姫
2.鬼道に仕える卑弥呼と、天皇の請いで神懸かりする姫
3.奴婢100人を殉葬したという卑弥呼の大墓と、人と神が日夜を分かたず作ったという箸墓、
経緯をたどると、原田大六がよりどころにしたのは、実は日本書紀であり、
そこに卑弥呼似の「姫と墓」を見出したというわけである。
つまり、今の畿内説は糸島の原田大六の末流、もしくはパクリということになるのである。
>>700 こういうのを「還元論法」といって
ヘタクソな詭弁の典型として古くから知られています
そんなことよりも、謎のゲーム(チェーンソーとか)などの話、
ほとんど老婆談と同じでしょ、なぜなんだろう
小椋某の曲、虹が〜と言っていたり
>>669 箸墓の年代ありきの詭弁。
前提が間違っているんだと何度言ったらわかるんだ。
間違った仮説の上に詭弁を上塗りするから、誰も畿内説を信じないんだぞ。
『超越』
河童、水神?かみたま(後の〜)という意味だしな・・・。
>>677 >交流は証明されているし、交流があるなら北部九州よりも強大な国が
いつ誰が証明した?
>>677 >一大率はヤマトからの派遣官だぞww
はい、ここも証明されていない仮説を元に説明しようとしているね。
畿内説を前提とした循環論法だよ。
これだから畿内説は支持されないんだよ。
いい加減に自分たちで畿内説の墓穴を掘っていることを自覚したほうがいいよ。
>>678 >中東からの土器の欠片なんて、胎土分析でも確認されてないだろ?
君の説明だと、土器は途中で交換してもいいんだろ?
>>627 >その後4世紀まで存続しているんだから、卑弥呼の時代にも
人々が集まる中枢域だぞww<
ダメだよ。
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って倭國の中心は北部九州であったのであり、
大和は、白村江の後まで、九州倭国の別種の附庸國という地位だ。
>何度も書いているが、その当時の畿内から北部九州の奴国まで含む広域秩序が
邪馬台国じゃなかったら矛盾するんだよ
この前方後円墳体制とは別の邪馬台国30国体制は、列島上に入る余地がない<
何度も書いているが、
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って倭國の中心は北部九州であったのであり、
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国の附庸國であったのであり、
白村江の後の701年になって、母国の九州倭国を併合吸収継承出来たのだ。
>>706 北部九州の多数の考古学者たちが証明している
とりあえず久住くらい読んどけ
『小椋 君はそれ以上』(超越)
このような曲・・・同じ、ガンダムなどの元ネタ?
>>684 >そんなに変わらないだろ?
>240年でも250年でも、その人物の在職期間は卑弥呼の治世と重なる
大違いだよ。
250年なら、卑弥呼の死後の乱で流入した外部勢力の墓だとかもあり得てしまう。
つまり那珂八幡は奴国が九州を代表したという根拠にならない。
まして、魏志倭人伝に伊都の大率を周辺の国がおそれはばかったと書かれているのに、それを平気で無視するのが畿内説なわけだ。
>>684 >卑弥呼の遣使により測量技術が魏朝からもたらされるよりも前だ
ええと、遣使に対する返使の時は、もう倭国に測量技術があり、その上で対馬海峡を三千里という短里を使っていたということになるね。
畿内説っていうのは、その場限りの言い訳が多いからすぐ矛盾するよねえ。
確実に明治時代?
そのころの写真なんだけど、後の〜人物の写真なのかな?
>>688 出雲よりも尾張の方が多いから、大国主から権力を奪った天孫である天照国照ニギハヤヒ(物部氏と尾張氏の祖)の一族のものだろうねえ。
>>695 >これが、卑弥呼の共立の結果だと考えるのが普通の論理的思考のできる人間の共通認識
年代もわからないのにそんなわけあるかよ。
>>695 >まともな思考力のある人間にとっては当然の帰結
典型的な決めつけ、個人の主観だね。
>>697 つまり用語は適当にそれぞれの個人が決めるので、あくまでも主観的な判断が加わっている。
>>628 >胎土分析で北部九州からの搬入土器は確認されてるぞ 集まってるなww<
北部九州のどこからだ?。
筑紫の土器は纏向には行っていない筈だ。
>>楽浪帯方からも来ていない。<
>韓式土器も出てるよ 来てるなww <
そうか。やっぱり楽浪帯方土器は来ていなかったか。
>その当時の畿内から北部九州の奴国まで含む広域秩序が
邪馬台国じゃなかったら矛盾するんだよ
この前方後円墳体制とは別の邪馬台国30国体制は、列島上に入る余地がない <
矛盾しない。
大和は、九州倭国の別種の旧小国だ。勿論邪馬台国なんて存在もしなかった騙し文言。
>奴国が女王国連合30国に参加しているのに、畿内様式の前方後円墳を
北部九州の伝統を破棄して奴国首長墓として採用しているという現実が
説明できなくなるんだよ<
弥生銀座は奴國ではないし、
「冢」は「前方後円墳」ではないし、大和は九州倭国の別種の旧小国だ。
いい加減に諦めろ
>>699 どの遺跡を見て3世紀と決めつけるのか。
また、仮に3世紀だとしても、248年より前と後では全く意味が違ってくる。
しかし現在の考古学では240年の土器や古墳と250年の土器や古墳を区別することはできない。
それどころか300年とも区別できない。
>>704 >箸墓の年代ありきの詭弁。
>前提が間違っているんだと何度言ったらわかるんだ。
何度結論だけ言っても
一度も理由言ってないだろ
どう「前提が間違っている」のか
具体的に説明してくれよ
具体的にな
『天財若子』
調べると出てくるでしょ、上の名前?
その家の写真なのかな
>>710 引用もできない無能
はい、ここまで証明皆無w
>>721 >しかし現在の考古学では240年の土器や古墳と250年の土器や古墳を区別することはできない。
>それどころか300年とも区別できない。
できないと断定する理由は?
>>722 君が十分に理由や根拠を示していないと指摘されているのだが、理解している?
>>725 区別できるという科学的根拠を是非示してください。
>>724 引用なんてする必要がないからしないだけだよ
テンプレでもう引用されているからな
三世紀前半の北部九州に庄内式が搬入されている
纏向遺跡に筑紫産の庄内甕が出ている
それでFA
>>642 >お隣のお膝元ともいえる奴国で平原1号墓の100倍以上大きな畿内様式の大墳丘墓を
作るのを許すって、どういう論理で説明できるんだ?<
東征毛人五十五國の将軍らが、
征服した毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を墓守り人にして、
巨大墓造りを強制したの。
>>727 簡単なことだ
景初三年銘が出れば239年より後と判定できるだろ?
水分神・・・?
水神関係の話だしな、何かの家だったのかな
>>730 240年と250年の区別ができないという話をしているのだが?
>>727 君が質問されてるんだよ
質問で質問を返すのは反則
>>688
地元も含めて、全部「東阿波型土器」様式土器。 これ、今の常識。 @阿波 >>728 少数だけしか搬入されていないから、直接ではなく、尾張に搬入されたものが分配されたと考えるのが「普通の考え方」かもね。
>>734 いや、君が区別できるようなことを書いているから、その根拠を聞かれているんだよ?
>>737 乱がいくつもあるのに、どうしてそうわかるの?
あと家は島根県のほうの出身ではないんだけど、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『❓』
>>733 だから、できないと断定明日る理由をキミは聞かれているよ
お返事は?
>>643 >>割わいで示して0%にしかならない。<
>それは、形態での分類での話で、胎土分析の分は比率には反映されていない <
それで、胎土分析で、筑紫の胎土の土器は何%だったんだい?。
>北部九州代表は地域最大国の奴国のはずだし、<
弥生銀座は、奴國ではない。
福岡平野中央〜筑紫平野及びその周辺丘陵地が邪馬壹國。
>奴国はこの時期 既に庄内甕を受け入れているので、形態分類では奴国のものと
認識されていない可能性がある <
筑紫の胎土に拠る筑紫の庄内は3世紀前半であり、
大和の庄内は3世紀末の石塚の庄内1からだから、×だ。
>>704 >前提が間違っているんだと何度言ったらわかるんだ。
その「前提が間違っている」というのを、
い つ に な っ た ら 具 体 的 な 根 拠 を 付 け て
論 証 し て く れ る ん だ ?
本当に無能だなww
編年研究は認めないにだーしか言わない
しかも「認めない」の根拠は決して言わないww
>>738 >いや、君が区別できるようなことを書いているから、
いつ、どこで?
証拠は?
>共立による祭祀連合
これは造語だけどそんなに広い範囲じゃないよ
もしあるとすれば、奈良を墓地とした狭義の連合だよ
それも、年代的に3世紀後半以降の連合だよ
>>695
>墳形はヤマトから、円筒埴輪(特殊器台)は吉備から、葺き石は出雲から、と
それらぜんぶ、阿波・讃岐地方の墓制。 これ、常識。 @阿波 >>712 >250年なら、卑弥呼の死後の乱で流入した外部勢力の墓だとかもあり得てしまう。
その乱入した外部勢力は、一体何人で乱入するんだ?
那珂八幡古墳のような86.0〜86.4メートルの墳丘墓を作るのに、
どれだけの労力が必要だと思ってるんだ?ww
それこそ間違った前提の上での思い付きだww
具体的なことを考えることから常に逃げているから、穴だらけの思い付きを
書き付ける以上のことができず、これに対する返信もせずにこの件から逃げるんだろ?
本当に無能だなww
>>713 >ええと、遣使に対する返使の時は、もう倭国に測量技術があり、その上で対馬海峡を三千里という短里を使っていたということになるね。
平面に直径150メートルの円を描くための測量技術と、
50キロ以上離れた海上距離を測る測量技術が同程度と思ってるのか?ww
とことんバカだなww
具体的に考える習慣が一切ないから、こういう大ボケをしたり顔で書けるんだろうな
本当に、根から腐っている無能だなww
>>738 アンタ、聞かれたことには一切答えられないのか
どんだけ無能なの
>>743 君の仮定が正しいことは君自身が証明しないと誰も証明してくれないぞ。
証明されていない仮説の上にいくら畿内説とやらを主張しても、誰も信じてくれないんだ。
>>716 >年代もわからないのにそんなわけあるかよ。
年代が分からないというのが、無理筋の強弁
むしろ、ここが古代史の絶対年代の定点となりうるところ
まあ、もっとも卑弥呼の共立がいつなのかは、具体的には分からないけれどね
ヒトという種の寿命から考えると、2世紀末ではないと思う
あと『後方不敗』「きつかわ こうぢ」?
音楽をやっている人物でしょ、どういう事なんだろう
>>645 >土器ってのは消耗品だから、遠くのものはその分少なくなるのが道理
九州から吉備に来るまでで壊れれば吉備で新しい甕を手に入れて先に進むだけ
だから、「少ない」ことは理由にならない
出ていることは交流があったことの証明 残念でした<
携帯して破損する消耗品よりも、「市」を介しての商品である場合の方が多い。
それで、筑紫→大和の土器は幾つあったんだい?。
>>745 >これは造語だけどそんなに広い範囲じゃないよ
>もしあるとすれば、奈良を墓地とした狭義の連合だよ
>それも、年代的に3世紀後半以降の連合だよ
という理由は?
>>715 >出雲よりも尾張の方が多いから、大国主から権力を奪った天孫である天照国照ニギハヤヒ(物部氏と尾張氏の祖)の一族のものだろうねえ。
おいおい、ニギハヤヒが国譲りを受けたとか、大国主から権力を奪ったとか、
それこそ妄想レベルでまったく根拠がないんだが?ww
こいつ、バカだろw
>>747 奴国ならいくらでも労働力を集められる。
支配層が自分で土や石を運ぶわけじゃないぞ?
>>751 >むしろ、ここが古代史の絶対年代の定点となりうるところ
>ヒトという種の寿命から考えると、2世紀末ではないと思う
どちらも根拠のない決めつけだね。
それを元に畿内説とやらを説いても、誰も信用しない。
>>717、
>>718 こいつ、「主観」って言えば無根拠で否定できると決め付けてるな
こういう思考回路では、科学は無理だよ
Korean Fatigueって言葉を使うのは何度目だろうw
>>737 だと思う。
で、崇神紀の武埴安彦命は神武天皇な。
神武紀の磯城彦が崇神天皇な。
お互いに戦った。
>>652 >でも尾張の土器が筑紫から出たりするわけだろ?
筑紫の土器が纒向から出ないのは、少なくとも直接の交流はなかったんだよ。
筑紫は尾張とも吉備とも出雲とも大量に土器をやり取りしている。
纒向はおそらく尾張とだけ交流し、その他の地域の土器は尾張経由だった。
しかも目と鼻の先の河内とさえ物資のやり取りはなかった。
尾張は関東とも北陸とも九州北部ともやり取りしていた<
成程。
>>755 おいおい、根拠もなく記紀を全否定か?
出雲がある時期まで卓越した繁栄をして、筑紫や尾張もそれに続いて繁栄したことは、考古学的に確認できるわけだよ。
記紀の粗筋を否定する根拠は何もない。
>>745 この範囲だよ
考古学的に確認できる実態のある証拠
そしてここに記載された草創期古墳がおおむね三世紀
>>762 >おいおい、根拠もなく記紀を全否定か?
逆だよww
根拠もなく神代の記紀を根拠にするなよww
それこそ信憑性の低い前提の上の仮説にしかならないww
お前、バカだろ?w
>>763 おおむね3世紀では根拠として不十分なんだよ。
240年と250年では政治的な意味が大きく違うからね。
卑弥呼の死後に筑紫が混乱して、畿内をはじめとする各地の勢力が伸長したとも考えられる。
>>762 >おいおい、根拠もなく記紀を全否定か?
根拠?
明らかだろ
記述対象の年代と文献の成立年代が開きすぎ
これで決定打だ
>>766 >記述対象の年代と文献の成立年代が開きすぎ
根拠にならんよ。
それなら令和の時代に戦国時代や平安時代について研究できないことになる。
>>762 >出雲がある時期まで卓越した繁栄をして、筑紫や尾張もそれに続いて繁栄したことは、考古学的に確認できるわけだよ。
この図でさえ、出雲周りの矢印の太さは、畿内や東海より細くなっているのが読み取れないのかな?
「ある時期まで」っていつ頃だ?
編年研究でははっきりしたことは言えないんじゃなかったのか?
本当にできの悪いダブスタ詭弁野郎だなww
>>765 >卑弥呼の死後に筑紫が混乱して、畿内をはじめとする各地の勢力が伸長したとも考えられる。
無理だな
伊都国の影響力が失墜してるのは2世紀末から
奴国が畿内と蜜月なのは3世紀前半から
むしろ記紀の通りに筑紫、出雲などが列島を代表する勢力として海外とも交流していた可能性が高いんだよな。
>>765 >240年と250年では政治的な意味が大きく違うからね。
纏向石塚古墳は、確実に3世紀初頭まで遡る
これだけで、240年とか250年とかぐだぐだ言うのはただの詭弁だと一蹴できるw
そして、那珂八幡古墳は纏向石塚古墳と箸墓古墳の間に入るのは、
相対編年だけでも確実
これだけで、那珂八幡古墳は卑弥呼の時代の奴国の首長墓だと確定するww
>>767 >>記述対象の年代と文献の成立年代が開きすぎ
>根拠にならんよ。
>それなら令和の時代に戦国時代や平安時代について研究できないことになる。
反論にならんよ
令和に成立した史料では戦国時代や平安時代について研究できない
自明
>>767 >それなら令和の時代に戦国時代や平安時代について研究できないことになる。
戦国時代や平安時代の文献は、令和の時代まで残っているだろ?
記紀編纂時に、3世紀の文書記録は一切なかったんだよ
詭弁にもなりゃしない
どこまでバカなんだろう?w
>>769 >伊都国の影響力が失墜してるのは2世紀末から
記紀では郡使の見聞の記録として、伊都の大率を周辺国(おそらく奴国も含めて)がおそれはばかったとある。
君の個人的な思い込みより重要な記述だよ。
>>771 >そして、那珂八幡古墳は纏向石塚古墳と箸墓古墳の間に入るのは、
>相対編年だけでも確実
でも絶対年代はわからないんだよ。
>>669 >こうやって考えれば、那珂八幡古墳の編年は間違いなく卑弥呼の治世に入るよww<
卑弥呼の墓は「冢」であり、
那珂八幡は「前方後円墳であるから冢ではない」ので、卑弥呼の治世には入らず、×。
千葉の神門古墳群のほうが奈良より古くねーか
奈良から飛び火したのならいつだ????
>>777
千葉の古墳も奈良の古墳も、いずれも「忌部はん」 のお墓だから。 @阿波 >>775
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ひれ伏すばかりなり。 @阿波 その1
卑弥呼は刺青をしてたか○×
その2
8世紀以前の天皇は刺青をしてたか○×
その3
明治天皇は刺青をしてたか○×
最後
モモソは刺青をしてたか○×
>>763日本@名無史さん2019/09/15(日) 17:57:27.88
>>765 >>745 この範囲だよ
↑
寺澤のひよっこについてくなよ・・オーソライズされてねーような資料出すなよ
数年前の、とあるスレでも言っている人がいたでしょ
「ホンモノ」「本人」だとか、
あの写真も、河童の作者の写真ではないし
>>774 >記紀では郡使の見聞の記録として、伊都の大率を周辺国(おそらく奴国も含めて)がおそれはばかったとある。
>君の個人的な思い込みより重要な記述だよ。
おまえ、文献を読む能力、極低だなww
それ、伊都国の権威が零落したから、よそから来た一大率に仕切られている状態で、
伊都国の権威なんてあったもんじゃないだろうが!
こいつの相手するの本当に面倒w
無能すぎるw
>>775 >でも絶対年代はわからないんだよ。
幅が広くて絶対年代がピンポイントで決まらなくても、
その下限が卑弥呼の遣使より前であることが示されているから、
卑弥呼の時代であることは「確定」だ
お前は無能
>>543 >「お前」が誰だか知らんがカナーリ妄想入ってるな
知り合いのS氏のサイトにかつて森岡編年や森井編年と
比較対象の光谷データが並べて掲載されてたが、ゴッチャにしてるんだろう
厳密じゃないので目安程度にとコメントがあったのに読み飛ばしてるんだろうし
それが布留0式古相が248年の根拠になってるのかドあほ。
布留0式古相が248年の根拠を言え。
>>781
マキムク編年 とか マキムク型前方後円墳は
あまりにも根拠が無い
似非学者が世に出るための手段だよ >>781 >寺澤のひよっこについてくなよ・・オーソライズされてねーような資料出すなよ
何をもって、オーソライズされていないというのか、根拠とともに明確に示してね!ww
>>667 >応神・仁徳同一あるいは兄弟説を採れば、世代数は合う
採るな。
>>787 >あまりにも根拠が無い
どう根拠がないのか、まったく論証なしで文字列を並べるだけww
庄内式土器、布留式土器の土器様式はよく研究されているし、
北部九州編年を一つの基準にしてすり合わせたものだから、
素人が「根拠なし」って言っても、ごまめの歯軋り以下でしかないぞww
纏向編年ではよくないとして、確立されたのが
庄内(0)1,2,3式、布留(0)1,2,3式という土器編年の体系なのだし
>>790
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ひれ伏すばかりなり。 @阿波 寺澤の言う
マキムク型前方後円墳の特徴は少しはあるけど
マキムク型前方後円墳以降も以前も、マキムク型いがいの前方後円墳は多数ある
前方部がどうのこうのなんてどうでもいいよ
特定の年代のすべての前方後円墳がいっしょなら少しはわかるがそうでもないし
同じ地方でも同年代並列してるし・・・・・
>>684 >40年でも250年でも、その人物の在職期間は卑弥呼の治世と重なる<
卑弥呼の墓は冢であり、
壹與の遣使が西秦武帝に教わった「天円地方」の前方後円墳ではなく、
更にずっと後の3世紀後半半ば過ぎになるから、重なる事はほぼない。
>そして、
>>669にも書いたように那珂八幡古墳は
卑弥呼の遣使により測量技術が魏朝からもたらされるよりも前だ<
卑弥呼の冢は、測量は殆ど必要が無い。
何やら〜(軍人関係)〜の学校の生徒でもないし、
あの子供も、たしか4歳くらいだと言っていたり・・・、
首席で卒業?
よこから
前方後円墳が一番多い県はどこか知ってる???
>>697 >墳形はヤマトから、<
いや、前方後円墳形は、那珂八幡などの筑紫から。
>円筒埴輪(特殊器台)は吉備から、葺き石は出雲から、と、
各地の墓制の要素を持ち寄って、かつ、各地域はそれまでの墓制を捨てて、
新しい前方後円墳祭祀に統一されている
これが、卑弥呼の共立の結果だと考えるのが普通の論理的思考のできる人間の共通認識<
いや、倭国の中心であった筑紫からの「東征毛人五十五國」の軍によるもの。
自分で応えちゃおう
前方後円墳の
最多は千葉県の約720基だよ
このうちマキムク型と区別つく古墳を寺澤は分別してねーよ
>>786 >それが布留0式古相が248年の根拠になってるのかドあほ。
>布留0式古相が248年の根拠を言え。
デマ流したのが露見して
罵っておのれの悪事をごまかそうとする破廉恥漢
w
w
w
>>697 >一般に使われるのは「前方後円墳体制」だ
広瀬和雄先生は一歩踏み込んで「前方後円墳国家」という言葉を使うけどね<
広瀬も、「南」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」などという史料事実を否定する、
嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師であるらしいな。
>>1 纒向型前方後円墳に言及した書物は
寺澤以外、そんなに多くないのでは??
>>788 マキムク型前方後円墳って
支持する学者名と文献示してくれるか?
畿内説互助会以外で多数いるか?????
>>699 >卑弥呼の時代3世紀の遺跡規模において畿内に劣る筑紫が
王都であった筈がない <
「南≠東」などに拠って、「大和が王都」であった筈がない。
大和は、九州倭國の「別種の旧小国」であり、
「東征毛人五十五國」の中の一国でしかなく、
また大和の前方後円墳は、3世紀末以後であり、卑弥呼の時代ではない。
>>788 あとさーー
ほかの人の投稿利用するが
>前方後円墳の
最多は千葉県の約720基<
の中でマキムク型を特定してくれねーか
>>690 やはり、誰がスレッドを読んでも、邪馬台国畿内説が破綻したことが分かるのですね。
僕も、貴方を見習って、このスレッドを、邪馬台国畿内説を宣伝する者達の頭の悪さを笑いリラックスするために、利用します。
>>806 ごめん わかりづらかったかな?
前方後円墳の内でマキムク型前方後円墳を明確に他の前方後円墳との違いを容認する
学者名とその文献(寺澤以外
また、マキムク型前方後円墳は定説にもいたっていないのでは????
>>710 >北部九州の多数の考古学者たちが証明している
とりあえず久住くらい読んどけ<
ダメだ。
久住は、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説をまだ放棄していないから、
そんな嘘つき騙し人間の書いたものなど、全く使用出来ず、×だ。
後方不敗、東西南北中央不敗〜と言っている人がいるけど、
斎祀、祭祀関係の話でしょ
破綻したことがスレッドに新たに出現した訪問者にもバレてしまった邪馬台国畿内説を宣伝する、頭の悪い朝鮮人の奥山氏が、反論を諦め、敗北宣言にしかならない嘘の悪口を言い放ったな、、、、
808 名前:日本@名無史さん 2019/09/15(日) 19:19:02.90
>>805 連句点がおバカすぎる件について
>>802 相手にするほどの価値もねーよ
纒向型前方後円墳は
あとマキムクを纒向と変換できるようにすればなお良いよ
>>792
それぞれ、違う「忌部はん」 だからね。 @阿波 >>797
それらは、関東忌部のお墓なんだよ。 えらい頑張ったんだね。 @阿波 >>728 >三世紀前半の北部九州に庄内式が搬入されている<
三世紀前半の北部九州の庄内式は、筑紫自前の胎土であり、搬入されていない。
参考までに、大和の庄内は、3世紀末の石塚の庄内1からであるから、
3世紀前半の筑紫に庄内を搬入出来ない。
>纏向遺跡に筑紫産の庄内甕が出ている それでFA <
証拠は?。
つい最近まで、纏向の「筑紫産の庄内は0」であった。
しかし、1個や2個では、
市を介する交易や、東征毛人五十五國の軍が持ち込んだ可能性もある。
ゲーム、アニメ・・・何なのか知らないけど、
謎の刀(劔)を持っていたとか、ほとんど同じ設定
>>814 >
>>1 貴方は、なぜ、頭が悪いのですか、、、<
>>1は
ただ年を食っただけだと思いますよ
是々非々の判断ができなくなっただけですよ
年を食うと正しいことも意地でも間違いだと頑固になるものです
しかし、人とのつながりがほしいから、たかが5ちゃんで四六時中いすわっているのですよ
まぁ時折ボランティアのつもりで
>>1に相手してやってください
>>737 >狗奴国の乱って、どうみても 武埴安彦命の乱だよ。<
「南≠東」などで×。
>>789 >採るな。
採らなかったところで、稲荷山鉄剣でも、崇神から雄略まで8世代ある
9世代と8世代は、権力中心と比べて地方豪族は1世代が長いことで説明できる
崇神から応神まで、3世代というのは当たらない
>>707 一大率は邪馬台国の出先機関という事だから
邪馬台国=大和=畿内なら循環論法にならない
そして畿内説は仮説ではなく定説
>>783 >それ、伊都国の権威が零落したから、よそから来た一大率に仕切られている状態で、
>伊都国の権威なんてあったもんじゃないだろうが!
おいおい、それも含めて伊都国が権力の所在だぞ。
少なくとも奴国ではない。
また、奴国に権力があったと仮定しても、それがよそから来た可能性は排除されない。
まあ、仮定が誤っているけどな。
>>784 >その下限が卑弥呼の遣使より前であることが示されているから、
いつどこでどう示された?
根拠を示せよ。
>>788 オーソライズされたと主張する方がそれを証明するのが当然なんだが?
それができないなら君はただのホラ吹き。
>>792 >前方部がどうのこうのなんてどうでもいいよ
それでいいよ
定形化前の前方後円墳でよい
その共通点は、葺き石・円筒埴輪・段築を持たない段階で後円部が不整形の円形
纏向型と呼ぶかどうかは本質ではない
こういうところが、この
>>792の情報リテラシーの低さだww
>>804 >最多は千葉県の約720基
一覧を出してくれたら考えるよ
橋本氏は寺澤氏と距離を置きつつあるという噂は本当?
ぶら下がりはいやみたいだとか?ついていけないとか?
>>751 >年代が分からないというのが、無理筋の強弁
むしろ、ここが古代史の絶対年代の定点となりうるところ
まあ、もっとも卑弥呼の共立がいつなのかは、具体的には分からないけれどね
ヒトという種の寿命から考えると、2世紀末ではないと思う<
これは、大和の前方後円墳の話であり、
始めから3世紀末以後の事になるから、
卑弥呼とは全く関係がなく、×。
>>805 ここへ来て、連続句読点が文末に連続句読点を付けずに
他人のフリをするようになってるww
でも、バレバレw
>>828 >オーソライズされたと主張する方が
オーソライズされたという文字列は、お前の書き込みがこの刷れでは初出なんだが?w
>>800 それじゃあオーソライズされてない纒向型を言い張っているだけか。
>>829 >根拠を具体的に示せよ。
なんの根拠?
そっちが「あまりにも根拠が無い」と言うから
こっちは「どう根拠がないのか」、具体的に言えと要求してるんだが
>>825 >一大率は邪馬台国の出先機関という事だから
その仮定が証明されていない。
>そして畿内説は仮説ではなく定説
「定説」と言い張る新興宗教があったよねw
>>797
それらは、関東忌部のお墓なんだよ。 えらい頑張ったんだね。 @阿波 議論する気のないやつを窘めるのも本当にめんどくさい
しかも相手は嫌がらせで面倒くさがらせることが目的化しているから余計
九州説は九州説スレで勝手にやってくれればいいのに
>>836 >それじゃあオーソライズされてない纒向型を言い張っているだけか。
トンデモ説さん
曖昧なことばかり言ってないで
「オーソライズ」とは具体的に
誰が何をどうすることなのか
明らかにしてくれよ
それじゃ畿内説批判にも反論にもならないぞ
>>826 >そして畿内説は仮説ではなく定説
云うことがでかすぎるねえ。せいぜい纒向互助会の中での「暫定説」程度だろう。
>>831 千葉県が前方後円墳が一番多いのは常識だよ
ググってみたらWW
その中で、マキムク型はいくつかぐらい寺澤も研究してんだろ
してなけりゃ、マキムク型なんていい加減ジャンWWW
>>839 >その仮定が証明されていない。
証明されていないと断定する理由は?
>>832 嘘か本当かは知らんけど、
マスコミは寺澤より橋本がいいみたいだよ
すとーかー?がいるのかな
銀〜〜という親戚もいたと言っているし、
家に凄い刀が飾ってあって
>>844 >その中で、マキムク型はいくつかぐらい寺澤も研究してんだろ
それはお前も見たはずだが?
前方後円墳は全国で4700基(2000年時点)確認されているが、
関東の千葉、茨城、群馬の合計は1576基(34%)と圧倒的に多い。
中でも千葉県は733基と断トツに多い。又大型の前方後円墳の総数
も東国が近畿圏の3倍も多く、これらの被葬者群が東国運営の根幹
を成し、中央の首長と親効関係にあったとみえる。
千葉県には約12000か所の古墳が確認され、そのほとんどが
房総半島に集中している。
主な古墳群は
〇公津原古墳群と龍角寺古墳群、ともに100基以上で古代の印旛郡
と成田市周辺にあり、「県立房総のむら」として大きな公園となっている。
〇祇園の長須賀古墳群にある金鈴塚古墳(木更津市)
がある。
>>763 >この範囲だよ
<考古学的に確認できる実態のある証拠
そしてここに記載された草創期古墳がおおむね三世紀<
その図は、大和の前方後円墳を3世紀前半にする嘘つき騙しをしているから、×だよ。
>>838 鹿島香取で合わせて日高見の国だろう。
鹿島の神は志賀島から派遣されたことになっているので、筑紫倭国の植民地だけどね。
>>848 オレ 見てねーから聞いてるんじゃん
応えられなかったら しらんでいいよ
畿内説支持者じゃねーのあんた
>>844 阿蘇山のカルデラの中の前方後円墳も似ているけどね。
>>850
それらは、関東忌部のお墓なんだよ。 えらい頑張ったんだね。 @阿波 4世紀までには関東や東北もヤマト王政が制圧してたんじゃんーかな
証拠はねーけど
千葉県の台風災害、一刻も早い復旧を願っている。 「忌部一族」より @阿波
あと、よく出てくる用語
主客〜?主、客が入れ替わった、
老婆の言っている芸能関係の話でしょ?
芝居などを観に行っていた?みたいなことを言っていたし、
前方後円墳もいいけど
円形墳丘墓の研究が進まないねー
卑弥呼の墓は円形墳丘墓だと思うが・・・
いつから どの学説や学者から
卑弥呼の墓はいつから前方後円墳になった?
例えば、あなたの演じている役など、
(本当は、実際は?)家の話なんだけど・・・というのと同じ、
それを客として観に行っているとか?
>>769 >無理だな
伊都国の影響力が失墜してるのは2世紀末から<
伊都国は、(奴國と並んで)阿毎氏の倭奴國の後継の国として、
隋代にも「竹斯國」としての一定の国と書かれたようで、
影響力は失墜していないよ。
>奴国が畿内と蜜月なのは3世紀前半から<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
奴國は、日向峠の西麓〜早良平野であり、(伊都国と同じく)倭奴國の阿毎氏系であり、
弥生銀座はほぼ邪馬壹國女王之所都地域であり、
大和は、阿毎氏の神武らの東征地であるから、
その後の倭国全域からの「東征毛人五十五國」の拠点を置き易かっただけであり、
「奴國だけが特に大和と蜜月」という事自体がないよ。
>>763 魏志倭人伝の言う倭国は東北地方も含まれるでいいの
狗奴国も倭国?それとも北海道????
関東に最初に進出した倭人は高天原から出雲に帰順した天穂日だよ。
その時の宮が関東最古の大社を名乗る鷲宮神社だ。
ただ、記紀の通りならその後で出雲は実権を失ってしまう。
出雲国風土記では、天穂日は出雲の次に経津主神とともに東国を征服したとある。
経津主神は東国支配の要である香取神宮の神となっている。
日本書紀では、経津主神が出雲攻略を支持された時に、饒速日の子である武甕槌が抗議して自分も出雲に派遣してもらった。
武甕槌は鹿島神宮の神である。
鹿島香取は今でも宮中祭祀において重んじられている。
>>721 ホケノ山古墳
炭素14c年代測定法と棺内遺物で240年以前のものと判定
三角縁神獣鏡
景初三年、239年の魏の年号入り
青龍三年、235年の魏の年号入りの方格規矩四神鏡も存在
>>771 >纏向石塚古墳は、確実に3世紀初頭まで遡る
これだけで、240年とか250年とかぐだぐだ言うのはただの詭弁だと一蹴できるw<
列島の前方後円墳は、
壹與の遣使への西晋武帝の266年の「天円地方」思想の教育で、
倭国がモンゴルや高句麗や半島の前方後円墳を真似る事になったから始まったのであり、
だから、石塚が3世紀初頭まで遡る事があり得ない。
>そして、那珂八幡古墳は纏向石塚古墳と箸墓古墳の間に入るのは、
相対編年だけでも確実<
那珂八幡の前に壹與の墓があり、撥型の石塚は明らかに那珂八幡よりも後であり、
仮に壹與が266年の直ぐ(仮に2年)後に亡くなったとし、
その次の那珂八幡の王もすぐに(仮に2年)後に亡くなったとしても、
その後の石塚は、いくら早くても270年以後にしかならない。
>これだけで、那珂八幡古墳は卑弥呼の時代の奴国の首長墓だと確定するww<
全くならんよ。
お前が分裂幻覚の妄想の・・・・アホ詐欺師になら、なる。
(自分の出ている作品など、でも演じているのは役者)
商品を購入と同じ・・・、
買っても、家の収入になるわけでもないしwとか
どこだったかな、同じようなことを言っている、
頭の良い人がいたでしょ
>>839 実際に邪馬台国や卑弥呼をこの目で見てどこそこが邪馬台国と断定できる人なんて居ないから
ある程度確からしい証拠が集まったし反証もないから邪馬台国は畿内と認めるに十分でしょうという
区切りが必要なわけ
その証拠が十分集まってるから畿内説は定説として扱われる
857日本@名無史さん2019/09/15(日) 20:24:47.39
千葉県の台風災害、一刻も早い復旧を願っている。 「忌部一族」より @阿波
十字と同じような存在?
自分の家の収入にはならないんだけど・・・、
演者などを生かすために犠牲になっているとか
漫画、アニメ、ゲーム・・・芸能、その他、
ほとんど同じ
実際は家の話w
みたいな事を言っている人がいたでしょ
>>781 >>この範囲だよ<
>寺澤のひよっこについてくなよ・・オーソライズされてねーような資料出すなよ<
ふーん、寺澤の画像であったのか。
寺澤も、全くの・・・・詐欺師だなあ。
>>874 スレをパート1から見るかテンプレを読んだら
>>872 >その証拠が十分集まってるから畿内説は定説として扱われる<
このスレ最大のアホか
>>1の末路WWW
>>862 >卑弥呼の墓はいつから前方後円墳になった?<
最近
>>879 何を言うやらWW
まとめてごらんよWW
>>784 >>(「石塚が3世紀初頭」か?の問題)でも絶対年代はわからないんだよ。<
>幅が広くて絶対年代がピンポイントで決まらなくても、
その下限が卑弥呼の遣使より前であることが示されているから、
卑弥呼の時代であることは「確定」だ お前は無能<
石塚は、くびれ部シャープで比率も整っている撥型前方後円墳であり、
那珂八幡は、くびれ部が鈍で比率も簡単ではない前方後円墳であるから、
明らかに石塚の方が進化型であり、
だから、石塚は那珂八幡よりも後であるから、
この男は無能でありインチキ。
65歳以上、最多3588万人=全体の28%、世界最高−総務省
畿内説も老人ばかりになった感がある
説のかかわらず考古学の若い力がほしい
橿考の新任もレベルが落ちているし、先輩も洗脳しすぎだ
>>790 >纏向編年ではよくないとして、確立されたのが
庄内(0)1,2,3式、布留(0)1,2,3式という土器編年の体系なのだし<
大和説学者らは、いずれも「南→東」などの嘘付き騙しであるから、
それだけで信頼性が全くなく、
幾ら確立された、なんて自慢しても無駄。
「南→東」を謝罪してから出ておいで。
>>880 きちんと審査され学説的にそうなってるけれど何か
九州説はあくまでも仮定だから邪馬台国が九州にありきの短里やら何やらは全て循環論法になる
>>882 オレなんかよりもっと知識深い人が今までさんざんわかりやすくまとめてくれてたんだが
それで納得できてないならお主はオレより頭の出来が悪いという事だ
>>862 >卑弥呼の墓はいつから前方後円墳になった?<
箸墓からじゃねーかな
それまでは畿内説もまともだったと思う
>>883 >石塚は、くびれ部シャープで比率も整っている撥型前方後円墳であり、
>那珂八幡は、くびれ部が鈍で比率も簡単ではない前方後円墳であるから、
>明らかに石塚の方が進化型であり、
ウソ
箸墓も鈍
つまり那珂八幡が新しい
>>825 >邪馬台国=大和=畿内なら循環論法にならない
そして畿内説は仮説ではなく定説<
邪馬台国も畿内も存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などによっても、定説ではなく、×説。
>>886 奥山 もうろくしたなーー
自作自演も頭使えよWW
>>890 人の区別がつかなくなるのは
老人性痴呆の典型
>>884
考古学やるなら、絶対に阿波! これ、マジ! @阿波 >>1 奥山氏の名誉のために
先生は巻向が邪馬台国の王都と断定していない
巻向が初期ヤマト王政の地じゃないかと言っているのだ
邪馬台国は二次的なもの
>>892
まさに、ここ掘れワンワン状態の、阿波考古学。 阿波の遺跡は、他のトンデモ説のチンケな遺跡とは、別格!
女性の人骨出土 犬山天神山古墳(徳島市)
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/52348696.html?__ysp=5aWz5oCn44Gu5Lq66aqo5Ye65ZyfIOeKrOWxseWkqeelnuWxseWPpOWis%2B%2B8iOW%2Bs%2BWztuW4gu%2B8iQ%3D%3D
石棺からは、ヒスイ製勾玉(まがたま)1点、青銅製の鏡1枚、水晶製勾玉1点、直刀1振り、
鉄鏃(てつぞく)35点、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)8点なども出土。 @阿波 >>839
>その仮定が証明されていない。
お前、読解力ゼロだろ?
「自女王國以北、特置一大率」一大率は自立した存在ではなくより上位の存在・女王により置かれる
「於國中、有如刺史」 刺史のごとくとあるから、一大率の治所伊都国は都ではない
証明するとかどうとか以前の常識 >>867 >ホケノ山古墳
炭素14c年代測定法と棺内遺物で240年以前のものと判定<
AMS法は、プラズマ化のために50〜100位古く出るし、
ホケノの中の何を検査したのか?を言わなくては、無意味。
>三角縁神獣鏡
景初三年、239年の魏の年号入り<
景初二年12月以前でないから、始めから明帝下賜鏡にはならない。
>青龍三年、235年の魏の年号入りの方格規矩四神鏡も存在<
これは、明帝下賜鏡である可能性はあるが、
列島に(大和とは関係なく)同范鏡があるので、
同范をしたのは渡来の呉系楽浪鏡師らの関与である可能性が高く、
勿論、どちらか?、両方ともか?が、楽浪鏡師の同范。
>>844 >してなけりゃ、マキムク型なんていい加減ジャンWWW
何度も言うが、定形化前の前方後円墳のこと
葺き石・円筒埴輪・段築を持たない段階で後円部が不整形の円形のもの
>>840 いくつあるか、じゃなくて、一覧で出してよ
そうしたら確認できるよ
>>874 >十分だという根拠は?
まともな思考力のある人なら全員納得できるからww
納得しないにだって言い張る人は、まともじゃない人だけ
ここのスレを見てるだけで分かるだろう?
きちんと意味の通る文章を書いている人はみんな納得してる
納得していないのは、
キウス、ザラゴキ、連続句読点、左側スロープ君、泡、「自分の考え」連呼君
ほら、一目瞭然だろ?www
>>901 自分でやってみろよ
墳型確定は結構難しい
調査範囲は有限だ
「わからない」が多いと
統計作るのは難しい
>>899 プラズマ化で50〜100年古く出ることはない
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に
卑弥呼が魏に使いを送った年は景初三年と記載
これらは魏書曰くと当時あった魏志倭人伝の引用を明記していて
卑弥呼が魏に使いを送った年が景初二年となっているのは
12世紀の誤字の多い復刻版の魏志倭人伝
なら同范元の青龍三年鏡はどこにあるのかな
青龍三年鏡が見つかってるのは京都と大阪の古墳からのみ
>>901 千葉県教育委員会が
前方後円墳の数が700強と公表してるから
詳しく知りたいのなら、千葉県教委に尋ねたら
千葉県庁〒260-8667 千葉市中央区市場町1-1 電話番号:043-223-2110(代表
からつないでもらったら
>>903 >自分でやってみろよ
だから、主張する側がデータを出さなきゃいけないんだろ?
いつもお前自身がそう言ってるんじゃないか!ww
一覧で出してくれたら教えてあげるww
>>905
無理 巻向型前方後円墳なんて妄想だから千葉県教委に通じないよ
ここは、寺澤一派が示すべきじゃねーか
>>905 だから、主張する側がデータを出さなきゃいけないんだろ?
いつもお前自身がそう(ry
>>888 最近、那珂八幡は纒向とは別系統だという論文が出てるよね。
>>903 それは理解できる。
それなのに、それを確定的なこととして邪馬台国が畿内にあった根拠にでっち上げるからおかしくなる。
>>901 巻向型前方後円墳が定説なら聞くならここでいいべ
千葉県 埋蔵文化財センター
>>872 >ある程度確からしい証拠が集まったし反証もないから邪馬台国は畿内と認めるに十分でしょうという
区切りが必要なわけ
その証拠が十分集まってるから畿内説は定説として扱われる <
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠っても×。
畿内説は定説だから
邪馬台国が畿内にあった事を前提で語るのは帰納的論法
九州説は仮説というかそれ以下の妄想だから
邪馬台国が九州にあった事を前提に語るのは循環論法に当たる
>>876 >教科書に載るくらいになったこと<
「南→東」などの嘘吐き騙しになる大和説を宣伝した山川や清水や東京の教科書会社や、
それを検定合格させた文科省が、犯罪者であり、×。
嘘を教えられる高校生が、気の毒。
>>886 >きちんと審査され学説的にそうなってるけれど何か<
「南→東」などの嘘吐き騙しの教科書を、出した教科書会社や執筆者も悪いが、
それを検定合格させた文科省の責任が最も重い。
>九州説はあくまでも仮定だから邪馬台国が九州にありきの短里やら何やらは全て循環論法になる<
九州説は、全て原則として、史料事実からの帰納的確率的な推論をしているんだから、
「結論先にありき」になっておらず、循環論法にもならない。
それに引き換え大和説者は、
「南」や「邪馬台国」や「畿内」や「朝廷」というような
結論先にありきの嘘吐き騙しになっているから、
循環論法であり、×。
とある音楽なども、
ほとんど同じような(設定)コンセプトでしょ。
聴いたことないから知らないんだけど
「ここに いたこと」
(すでに死んでいる)みたいな設定。
>>1 なぜ、完全に破綻したことがはっきりしている邪馬台国畿内説を、宣伝しているのですか。
>>887 >箸墓からじゃねーかな
それまでは畿内説もまともだったと思う<
いや、畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
それまでも、大和説は「南→東」などの嘘吐き騙しをしていたから、
始めから、×。
>>916 九州説が定説ではない以上
史料を検討して邪馬台国は九州になったというのは帰納的解釈とはなりえない
史料を検討して九州になるのは循環論法的解釈
史料を検討して畿内になったというのは帰納的解釈
>>888 >>石塚は、くびれ部シャープで比率も整っている撥型前方後円墳であり、
那珂八幡は、くびれ部が鈍で比率も簡単ではない前方後円墳であるから、
明らかに石塚の方が進化型であり、<
>ウソ 箸墓も鈍 つまり那珂八幡が新しい<
「シャープ」と「比率」と「撥型」で比べずに、
「シャープ」さだけでのイチャモンか?。
大和説者の「細工画像」ではなく、普通の写真で比べてみろ。
那珂八幡は、箸墓よりもシャープだ。
>>1 貴方は、なぜ、NHKに具体的な証拠が見つからないと発表されている、邪馬台国畿内説という破綻した仮説を、宣伝しているのですか、、、
やはり、5ちゃんねるを活発にするための作戦ですか。
>>902 >まともな思考力のある人なら全員納得できるからww
納得しないにだって言い張る人は、まともじゃない人だけ<
まともな思考力のある人なら、
「南→東」などのような史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しをしない。
「南→東」などの嘘吐き騙しを言い張るを大和説者は、まともじゃない人だけ
スレッドの者達に、挨拶します。
初めまして。
僕は、趣味で邪馬台国畿内説を研究している人物です。
今、スレッドをpart1から順番に、全て読みました。
邪馬台国畿内説が、完全に破綻したことが、わかりました。
有難う御座いました。
南→東だから×と畿内はないしか言えなくなったザラコクは
そろそろ終いよのう
>>927 連続句読点のやることにオリジナリティなんてある訳ないじゃんw
>>904 >>プラズマ化で50〜100年古く出ることはない <
外周電子を取り払って裸にするプラズマ化して不安定化すれば、
残された原子核は、とりあえず電磁場的に安定になる事を志向し、
とりあえず中性子→陽子+電子+ニュートリノの壊変をして、
その電子をベータ線として放出する事を起こすもの。
>梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に卑弥呼が魏に使いを送った年は景初三年と記載
これらは魏書曰くと当時あった魏志倭人伝の引用を明記していて<
同じ時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録は極めて信頼性が高く、
後代史家の「自己解釈に拠る書き換え」が、
極めて多い「梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧」は、半分×書であり、
正しい確率が非常に低い。
>卑弥呼が魏に使いを送った年が景初二年となっているのは
12世紀の誤字の多い復刻版の魏志倭人伝<
いや、宋明清代の沢山の校勘学者の判定では、
「三年」が正しい、とした学者は0であり、
全員「二年」で正しいとして、校勘変更していない。
>なら同范元の青龍三年鏡はどこにあるのかな
青龍三年鏡が見つかってるのは京都と大阪の古墳からのみ<
だから、不明であるか?、片方が明帝鏡であって他方がその同范鏡であるか?、
両方とも同范鏡であるか?、という事。
>>910 >最近、那珂八幡は纒向とは別系統だという論文が出てるよね<
そんな事、前方部長と後円部直径とを測って見れば、すぐに判るよ。
>>930 出たよザラコクの出鱈目知識
原子核の外周の電子がどうなっても原子核には影響がないと何回も言われただろ
大体プラズマ化で放射性崩壊が促進されるなんて結果報告は世界中のどこにもないし
つまりそういう現象はないって事で
AMS法で50年100年年代がズレる事はないって事
そもそも測定データは年輪年代法と年代を合わせて調節されてるのに
>>914 >畿内説は定説だから<
いや「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をした説は、定説ではなくインチキ仮説。
>邪馬台国が畿内にあった事を前提で語るのは帰納的論法<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「結論を前提にした」ら、それが「結論先にありき」であり、循環論法。
>九州説は仮説というかそれ以下の妄想だから
邪馬台国が九州にあった事を前提に語るのは循環論法に当たる<
史料事実からの帰納的確率的な推論をすれば、
結論先にありきでもなく、循環論法でもない。
>>798 >>それが布留0式古相が248年の根拠になってるのかドあほ。
>>布留0式古相が248年の根拠を言え。
>デマ流したのが露見して
>罵っておのれの悪事をごまかそうとする破廉恥漢
はい、やっぱり言えてませんwww
卑弥呼(Bei mei hu)とは簡単。
比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 が住んだのは葛城である。
>>933 結論が畿内説ありきで語っても帰納的論法になるのだよ
畿内説は定説だから
>>922 >九州説が定説ではない以上<
大和説の方が、「南→東」などの嘘吐き騙しをしてインチキ説。
>史料を検討して邪馬台国は九州になったというのは帰納的解釈とはなりえない<
まともな推論法。
>史料を検討して九州になるのは循環論法的解釈<
まともな解釈。
>史料を検討して畿内になったというのは帰納的解釈<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
この男は、つぶやきや類スレ主らと同じような脳のおかしい人種であるようであり、
説明して上げるのは無駄であるようであるから、放置対象。
畿内説というよりも
卑弥呼=崇神天皇の父方の大叔母 説なんだよ。
この場合、狗奴国王の乱が
武埴安彦命の乱のことだということが、ほぼ説明がつく。
国土地理院の地図
見よ、径百余歩
卑弥呼の墓、高天原にあった。
神話の世界などありはしないという自惚れた現代人に対して強烈なしっぺ返し。
>>930 魏志倭人伝は12世紀の宋での復刻版で3世紀の魏の同時代記録とは言えない
逆にそれ以前の魏志倭人伝の文をそのまま引用している
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧の方がよほど魏の時代の記録に近いし
内容も共通しているので卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年で疑いがない
>>938
崇神は4世紀前半
卑弥呼=(Bei mei hu)
比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、
つまりヒメ(踏鞴五十鈴)后 とは100年ずれている、もうあきらめろ。
>>930 青龍三年鏡は畿内でしか見つかってないから同范鏡はないものと思われる
畿内と魏に交流のあった証拠
邪馬台国が畿内にあった事を前提で語るのは詐欺師の論法
阿波はまだ根拠ある
畿内説は前提がそもそもずさん過ぎ
畿内説
定説だろうが、仮説だろうが、学説だろうが、説は説どまりだ。
決定・確定ではない。
畿内箸墓説の元祖とは:
糸島中学の代用教員であった原田大六は、戦後昭和の頃、糸島伊都国説を引っ提げて邪馬台国論争に参入し、
倭人伝の卑弥呼と、日本書紀の倭トトヒモモソ姫には類似点が多いから、箸墓が卑弥呼の墓であると断じた。
類似点:
1.邪馬台国の女王と、倭の名を冠する最高位の姫
2.鬼道に仕える卑弥呼と、天皇の請いで神懸かりする姫
3.奴婢100人を殉葬したという卑弥呼の大墓と、人と神が日夜を分かたず作ったという箸墓、
経緯をたどると、原田大六がよりどころにしたのは、実は日本書紀であり、
そこに卑弥呼似の「姫と墓」を見出したというわけである。
つまり、今の畿内説は糸島の原田大六の末流、もしくはパクリということになるのである。
巻向型前方後円墳は定説じゃねーよ
ひとつの説に過ぎないのだ
畿内説はなんでもかんでも定説にしちまうバカ集団か
>>947
>阿波はまだ根拠ある
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ぐうの音も出ない九州説や畿内説。 @阿波 >>943 青龍三年鏡3枚のうち、畿内で見つかったのは1枚だけ
丹後は畿内ではない
も1枚は埼玉
古墳時代後期には大型前方後円墳は主に関東で作られるのだが、畿内説による論理では王権の所在地は関東になる。
>>953
倭国(阿波)による論理では王権の所在地は倭国(阿波)になる。 @阿波 >>945 邪馬台国は畿内を前提に語っても定説だから問題ない
学会ではすでにそう
>>946 阿波説は定説じゃないから同じく定説じゃない九州説と同じ
>>948 定説という事は邪馬台国は畿内と決定されたということ
>>950 実際に定説だし
邪馬台国は畿内にあったから前方後円墳があるでそう証明された事になる
>>952 畿内説は定説なので
畿内が魏から貰って各地に配ったで証明は終了
>>955
>阿波説は定説じゃないから同じく定説じゃない九州説と同じ
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ぐうの音も出ない九州説や畿内説。 @阿波 >>923の訂正
>>石塚は、くびれ部シャープで比率も整っている撥型前方後円墳であり、
那珂八幡は、くびれ部が鈍で比率も簡単ではない前方後円墳であるから、
明らかに石塚の方が進化型であり、<
>ウソ 箸墓も鈍 つまり那珂八幡が新しい<
「シャープ」と「比率」と「撥型」で比べずに、
「シャープ」さだけでのイチャモンか?。
大和説者の「細工画像」ではなく、普通の写真で比べてみろ。
箸墓や石塚は、那珂八幡よりもシャープだ。
いい加減に、纒向は尾張の傘下のマイナー拠点だと認めたらどうだ?
近畿地方は尾張氏と物部氏の祖である饒速日の王国だったんだよ。
纒向を宮と見なすなら垂仁天皇の纒向珠城宮や景行天皇の纒向日代宮に比定するべきだろう。
邪馬台国を持ち出すのは筋違いも甚だしい。
日本史の史書とも魏志倭人伝とも全く整合性が取れない畿内説など、妄想だとしか言いようがない。
倭国乱れて大騒動で、やっとこさ女王卑弥呼の共立に持ち込んだ。
ところが今度は、南の方で狗奴国の反乱が続き、帯方郡に軍師の派遣を申し出るしまつ。
悪い時には悪いことが重なるもので、女王卑弥呼が急死して大急ぎで墓をつくり、
葬式が済んで、やれやれ後継ぎに男王が立とうとしたら、又もや倭国乱れて殺千余人のてんやわんや。
そんな不安定な時代に巨大な箸墓・西殿塚なぞ作ってるヒマなかろうが、、。まして女王の権力基盤は定まっていたなどとバカもたいがい
>>928 「南→東」の嘘つき騙しの指摘に反論できず、
「畿内なんて存在もしなかった」にも反論が出来ず、
殆ど何も言えなくなった大和説は
そろそろ終いよのう
>>910 >最近、那珂八幡は纒向とは別系統だという論文が出てるよね
系統の問題じゃなくて、段階の問題なんだよ
前方後円墳を作るという合意と、
「段築・葺き石・円筒埴輪」+正円形の後円部という定形化前方後円墳の木槨の共通化が
二段階で生じている
纒向型前方後円墳t
>>961の続き
纒向型前方後円墳というのは、定形化前のものを呼ぶもの
1.前方後円墳を作る合意が古墳時代草創期の始まりで、2世紀末から3世紀初頭
土器編年では庄内式土器が対応 事実上、纒向石塚古墳から
2.前方後円墳の定形化からが古墳時代本番で、3世紀半ば以降
土器編年では布留式土器が対応 事実上、箸墓古墳から
1.が卑弥呼の共立、2.が卑弥呼の死とその墳墓造営を契機にしている
>>932 出たよ東大理系博士号自称の出鱈目知識
>原子核の外周の電子がどうなっても原子核には影響がないと何回も言われただろ<
始めから、
アインシュタインの「重力場と電磁場が相互作用をする」という予言が、
確認観測された、と言っあるだろ?。
そして、場は相互作用で「安定化」を志向する、という事は昔からの常識だ。
>大体プラズマ化で放射性崩壊が促進されるなんて結果報告は世界中のどこにもないし
つまりそういう現象はないって事で
AMS法で50年100年年代がズレる事はないって事 <
プラズマ化に拠って発生した「不安定な場」は、その不安定さが解消されるまで。
安定化を志向して、「中性子→陽子+電子+ニュートリノ」のベータ崩壊を続けるさ。
>そもそも測定データは年輪年代法と年代を合わせて調節されてるのに<
年輪年代も、
基準木と検体木との気象変化の同一性の保証がないから確率的であり、
それで「伐採年」が推定出来ても、柱や板として「使用された年次」は、
「寝かせ」などでかなりの差異があり、
数十年の差異はすぐに発生してしまう、
という事は、何度も書いて上げたよ。
>>932 >そもそも測定データは年輪年代法と年代を合わせて調節されてるのに
(その年輪年代法が池上曽根遺跡が古くなりすぎるなどの疑念があって)
(年輪年代法による14C較正曲線を土器編年で修正したものがJcal)
(光谷氏の日本の年輪年代測定を一人で開発した功績は高く評価しているが)
(おそらく光谷氏が鬼籍に入られたら、Jcalの修正版が出されると思う)
>>935、
>>940、
>>942 左側スロープ君は自分の巣へお帰り
>>962 畿内説を整理するとこういう筋書きです、ということか。
余りにも卑弥呼の一生にこだわり過ぎ、とらわれすぎではないかな。卑弥呼の墓は「塚」だったと書かれているのにねえ・・。
どの学者がいつから
卑弥呼の墓を前方後円墳にしちまったのだ
言いだしっぺは誰だ
>>938 >卑弥呼=崇神天皇の父方の大叔母 説なんだよ<
卑弥呼は、
一旦阿毎氏と合同して、また別れて大野に移ったらしい「姫氏」系の中の、
「卑」氏であったようであり、筑紫からは殆ど動いておらず、
勿論阿毎氏系から別れた別種分家の大和の崇神らとも、直接的なかった関係が殆ど無く、
だから、×ね。
>>940 >卑弥呼の墓、高天原にあった。<
「南≠東」などに拠って×。
結局、最後のよりどころは寺澤・2000の図か、
まだ当時は、学会関係者の中だけのなあなあで済んでた時代だ。
その後、2ちゃん・5ちゃんで世間一般の監視が厳しくなってきたからねえ。ま、古き良き時代は終っちまったんだよ
>>1 本当は小椋佳の話なんじゃないの?
そのような曲ばかりだし
実際は誰でも良い、
そのような存在になれる?みたいな話、
しょーとくたいし(仮)なども同じとか
『光のネットワーク』
ほとんど同じような曲だしなw
>>109の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗.▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│↓「陸行1月」(幻).│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」 >>970
>ま、古き良き時代は終っちまったんだよ
そして、2ちゃん・5ちゃんで世間一般の監視が厳しくなって、今や阿波の時代となった。 @阿波 >>943 >青龍三年鏡は畿内でしか見つかってないから同范鏡はないものと思われる
正始元年の紀年銘鏡は同范鏡だから桜井茶臼山古墳出土が確認できた訳で
同范鏡がないという話にはならないよ
>>962 >1.が卑弥呼の共立、
共立なんてしてないよ、2世紀前半から続く其の国の王権が女王を擁立し、
相対してた相手も納得しただけ。
共立なんて適当な事を言わないように。
だいたい卑弥呼の墓は塚
「墳」の建造時期が3世紀半ばでどうするんだよ、馬鹿なの?
>>967 箸墓は卑弥呼の墓と断定した学者はいないと思うよ
橿原考古学研究所出身者がそれとなく臭わせたのだよ
>>1なんかはそれに踊らされた犠牲者の一人じゃないかな
>>940 左(東)に下るだけの尾根は塚ではない
塚を踏みつけて参道がつけられているなどありえない
高天彦神社の拝礼方向は、この尾根を完全に無視している
以上、記紀の土蜘蛛表記と蜘蛛塚の「蜘蛛」の二文字だけの一致に頼り切った駄論は
現実により否定される
神武天皇は卑弥呼より5世代100〜150年前の人で年代も合わない
もともと考古学は神話を顕現させたHシュリーマンから始まるのに、
日本のアホ学者は大和に神話の高天原があることさえ忘れている。
その高天原に径百余歩の塚と埋葬された奴婢の痕跡が有った。
原点を忘れた人間が大恥こいている。
大笑いだ。
>>914 ×>畿内説は定説だから<
○畿内説は畿内説互助会内部の定説
>>979 塚だよ。
これが塚に見えないのはお前の頭の問題。
だいたい「棺を容るにたる」が塚だからね。
この塚の周りは今でも墓だよ。
とりあえず>1がテンプレを刷新しないと、畿内説はバカにされ続けるし、自滅する。
>>979 >神武天皇は卑弥呼より5世代100〜150年前の人で年代も合わない
根拠を言え。
>>941 >魏志倭人伝は12世紀の宋での復刻版で3世紀の魏の同時代記録とは言えない<
宋明清代の校勘学者は、
誰一人も一度も「景初二年→景初三年」の校勘をしていない。
つまり、全員「景初二年で正しい」としている、という事。
>逆にそれ以前の魏志倭人伝の文をそのまま引用している
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧の方が<
ダメだ。その「4史書」と魏志倭人伝とを比べて見ろ。
その四つの後代史書は、「後代の自己解釈に拠る書き換え」をやった箇所が一杯見つかる。
>よほど魏の時代の記録に近いし <
同時代文書の方が、「起居注」を見れるから、はるかに歴史事実に近い。
>内容も共通しているので卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年で疑いがない<
遣使と面会したのは、明帝であり、
明帝は、景初二年大晦日〜景初三年元旦の間に亡くなっているから、
「景初三年」説は、×。
国宝海部氏系図って、半分信じて、半分疑ってみる必要がある。
信用できるところは、やはり、皇室系図の欠史八代の時期に
皇位継承争いがあって、倭国大乱になったこと。
その場合、邇邇芸命の男系子孫と、天火明命の男系子孫の間で
皇位継承争いになったこと。
その場合、どちらも一族の女性を巫女として皇位につけようとしたと思われる。
疑うところは、国宝海部氏系図では、丹波の海部氏を天火明命の嫡流のように書いてあるが
実際は、尾張に落ち延びた尾張氏のほうが嫡流で、海部氏はその傍流。
尾張氏は尾張以外にも複数も領国があり、その一つが丹波にあったが、
その遠隔地に一人の息子に任せ、やがて、この家系が海部氏に分家したと思われる。
また、尾張、丹波などの地方に下ったのも、天火明命よりも、ずっと後の代だろう。
>>970
>ま、古き良き時代は終っちまったんだよ
そして、2ちゃん・5ちゃんで世間一般の監視が厳しくなって、今や阿波の時代となった。 @阿波 国宝海部氏系図も、倭国(阿波)の海人族系図。 @阿波
>>953 河内大塚山古墳墳丘長335メートル、見瀬丸山古墳墳丘長318メートルより
大きい古墳が関東のどこにあるって?
>>986 そのホアカリさんの一族が西日本の支配者で尾張を拠点に纒向も支配して前方後円墳を作ったんやで。
別名をニギハヤヒ、ヤマト王権で軍事と祭り事の実権を掌握していた物部氏の祖でもある。
もちろん邪馬台国とは別の国だけど。
981日本@名無史さん2019/09/16(月) 08:52:18.62
>>914 ×>畿内説は定説だから<
○畿内説は 畿内説互助会内部の定説
卑弥呼もトヨも国宝中平銘鉄刀の保持者・和邇氏の系譜にいる。
http://bbs10.aimix-z.com/mtpt.cgi?room=e_asia&mode=view&no=87&list=all
邪馬台国は葛城で卑弥呼の墓は高天原だ。
>>975 見つかってないものを根拠にはできないね
青龍三年と魏年号の入った鏡が畿内に相当する京都大阪で見つかった
今判明している事実はそれ
>>993 青龍三年鏡3枚のうち、畿内で見つかったのは1枚だけ
丹後は畿内ではない
も1枚は埼玉
畿内説が成り立つなら関東説も成り立つのか?
>>990
>物部氏の祖でもある。
その「物部氏」の祖神とされている「伊加賀志許賣命・伊加賀色許雄命」が
日本で唯一、阿波國麻殖郡 「伊加々志神社」で祀られていることから、物部氏の本貫地は旧麻植郡周辺の可能性が高い。
碌に「物部氏」の祖神を祀らないところ、「物部氏」の祖神など居る訳がない。 以上御終い。 @阿波 碌に「物部氏」の祖神を祀らないところに、「物部氏」の祖神など居る訳がない。 以上御終い。 @阿波
それと
『東方不敗マスター・アジア』(東西南北 中央)
『ワンピース 粉雪』でしょ?
「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「みなしてよい」
などの主観的な判断の表現を疑え。
少なくともそれらは仮説に過ぎず、確認された事実とは区別しなくてはいけない。
それらの仮説を除くと、テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになってしまう。
畿内説は客観的根拠が不足しており、仮説の上に仮説を積み上げただけの、砂上の楼閣に過ぎない。
>>991 学会での定説だよ
>>985 現在見られる魏志倭人伝は12世紀の復刻本
同時代記録ではない
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧はそれ以前の魏志倭人伝を引用し
それぞれ共通して卑弥呼が魏に使いを送った年を景初三年と記す
となると明帝の詔書は倭の朝貢が内定した際にあらかじめ書いてあったものの可能性がある
>>963 重力と電磁気力が干渉するのはブラックホール等の重力が極端に強い環境
通常の環境では重力波電磁気力に対してほとんど影響を与えない
そして地球はブラックホールでも何でもなし
プラズマ化によって年代測定が大きく異なる事は測定結果が
年輪年代法合わせて調整もされている以上原理的にない
そして年輪年代法から年代がズレているとするならば
何をもってして正しい年代といえるのか
九州説に合致しないから年代測定法は全部誤りとするのは
九州説ありきの典型的循環論法
lud20251205155211ncaこのスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/history/1568376317/
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